太田光の表現者としてのプライオリティ

爆笑問題のニッポンの教養SP」では爆笑問題東京芸大を訪問し教授陣や学生たちと「表現」について議論をかわしていた。
まず太田は日大の芸術学部に在籍した頃の自分を振り返る。

(芸術学部にいるということに)安心感があったのね。これがぬるま湯だったんです。
だから僕はものすごく自分が嫌になって、辞めたんですけども。
つまり、学生時代はみんな若いし、まだ自分の結果が出てないから、何にも。
で、みんなでこうやって芸術論戦わせてれば、(不安が)解消されちゃうみたいな時代じゃないですか? 僕は少なくてもそうだった。
それでだんだん自分がここにいること自体が、どんどん萎えてきちゃって駄目にしちゃうんじゃないかなっていう、その危機感は僕は学生時代にあったんです。

「300年後の人に伝えたい」という意見に対して、その曖昧さが「芸術」の問題点ではないかと指摘する。
太田は「今、その場にいる人に伝えたい。300年後の人間なんて関係ない」のだと。
分かる人にだけ伝わればいいというような態度に対して彼は、表現者として「『人が見なきゃしょうがないだろ』ってどうしても思ってしまう」と一貫して否定している。


そして、ある女性オルガン奏者が「誰も見に来てくれない」「知られないまま終わるのが表現者として一番、嫌だ」と語ると、これは「切羽詰まった切実な問題」だといよいよ太田の弁に熱が帯びていく。

例えば我々の新人のお笑い芸人の奴らっていうのは、今、1分ネタっていうのが主流なわけ。
そうじゃないとチャンネルかえられちゃうから。見てくんないの、それこそね。
そうすると1分にしろって言われるわけ。
インチキみたいなプロデューサーがいっぱい出てきて。「アレ削れ、コレ削れ」って言われるわけ。
それでも、10分、30分、1時間のライブをホントは見せたいんですよ。
それはプライド傷つくんですよ、我々でも。
でも、そこで大事なのは、そのジャンルが大好きっていう気持ちと、平気でそのジャンルを乱暴なものにいじくられても「いいよ、俺」っていう(気持ちが)、両方必要なんだという気がしてるわけ。


例えばだよ、我々「ボキャブラ天国」っていう番組で、まぁ、一般的には(名前を)知ってもらったんだけど、あれなんかダジャレですよ。
で、当時、プライドであんなものやらないっていった芸人はいっぱいいたんですよ。
使い捨てみたいなところで、やってられるかっていう気持ちがあった。
だけど、そういう局面来ると思うんだよね。
つまり、レコードを出す時に、レコード会社の奴らが、「ちょっとこれ、ジャズ入りすぎちゃってるから、もうちょっと解りやすくしてくんない?」みたいなさ。
自分のジャンルを知ってもらいたいけど、そのために魂売んなきゃならない局面がプロとしてやっていく上では絶対にあると思うだよな。誰しもあったよな? 
そん時にどれだけ突き放せるか、そのジャンルを。
「漫才師って呼ばれなくたって構いやしねえよ」「お前は単なるポップス奏者だって呼ばれてもいいもん、私」っていう。
俺、逆にそっちのほうが、「守ろう」って気持ちよりも、もしかしたら必要になってくるかもしれないな、って。


<関連>
太田光、先輩三谷幸喜への屈折した想いを語る。
太田光が青臭い正論を吐く理由
太田光が議論を好む理由
太田光が浅草キッドとの確執を語る。