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電波少年的テレビ革命(電波少年が本当にパンクな番組だったのか確かめたーいっ!!!)#1

特集 番組 ブログ

噂によると、今年の「24時間テレビ」で「懐かしの名番組 夜の同窓会スペシャル」と
題して「進め!電波少年」からも名場面が流されるらしい。
そこで!
日本のパンク番組「電波少年」がどのように生まれていったのか調べてみた。


電波少年」が生まれるきっかけは「ウッチャンナンチャン with SHA.LA.LA」が
ウンナン自身の映画撮影専念のため6月で突然終了したことからだった。
その時、ウンナン復帰までのつなぎ番組を任せられることになったのが
土屋敏男だった。
彼に渡されたのは松村邦洋と松本明子という当時無名に近い二人だけ。
この絶望的状況の中、師・テリー伊藤の精神を受け継いだ土屋は
この番組の仮タイトルをこう名づけた。
「やったろうじゃん」
コンセプトは「会いたい人に会う。見たいものを見る。したいことをする」
とし、下ネタはやらない*1と決めていた。


しかし、番組は苦肉の策の連続だった。
松村と松本の2人ではテレビとして画面が持たないということで、あのCGを使った
独特の画面が生まれたし、初期「電波少年」の代名詞とも言える「アポなし」もそんな
考えは最初無かったのだ。
実際、第1回目の企画「憧れの227センチの岡山さんに会いたい」ではアポを入れている。
しかし、住友金属の広報が一般人だから取材は認められないと拒否。
そこから「アポなし」の歴史が始まることになる。
取材が認められないことを聞いた土屋だったが「行っちゃえ」と指示。
当時松本のスケジュールは真っ白
全く暇だったため「じゃあ、来るまで待ってるか」と会社の前でひたすら待ったのだった。
会社からは直帰と聞いていたが、松本の「会いたい」という執念で1日中待った。
そしたら、奇跡は起きた。
偶然会社に戻ってきた岡山さんに会えた。
松本感涙
しかし最もいいシーンである松本が涙を流しているところにディレクターが
映りこんでしまっていた
当初編集で切ったが、土屋は「こここそ俺たちのスピリット」と使うことを決断。
後に多くのバラエティ番組で使われるようになった「電波少年スタイル」とでも
呼ぶべき編集スタイルが生まれる。
驚くべきことに、第1回の企画にしてすでに「アポなし」と「電波少年スタイル」*2
生まれていたのだ。
そしてその日もうひとつ放送されたのが松村による
「渋谷のチーマーを更正させたーい!!」
ここで早くも「松村+暴力性」というエッセンスも付け加えられている。
ちなみに第1回のゲストは高田純次*3
彼がこのVTR明けに「これは終わってない」と言ったことから、
これがシリーズ化することに。
また、エンディングには視聴者に何の説明もなくイランの言葉で
イラン人AD募集のテロップが流れる。
バカバカしさと革新性が満載されたエポックメイキングな始まりだった。
そして、この日の視聴率がまさかの12%という高視聴率を記録。
この成功で松村には「なんか思いついたら呼ぶからな」とポケベルが渡され
週5日は呼び出されロケをするという日々に。
ダメモト、何でも出かけるスタンスが確立されていった。
                          (#2へ続く)


参考文献

電波少年最終回
電波少年最終回
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土屋 敏男
日本テレビ放送網 (2001/10)
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*1:結果、伝説企画の一つ「豪邸ウンコシリーズ」まで下ネタは封印された

*2:さらにいままで、なぞったり説明するだけのテロップやナレーションが、「好感触」や「出たあー。松本明子の手の平返し」と笑わせたり、つっこみを入れたりするのも意図的に多用したのはこの番組が最初だろう

*3:電波少年の方向性を示唆するような見事なキャスティング