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ピタゴラスイッチと佐藤雅彦 #2

一番好きな言葉は「整理整頓」(佐藤雅彦)

●1954年、静岡県戸田村に地元の名士の家庭に生まれる。

しばらくぶりに生まれた男の子だった。
父は元々神戸の造船所で設計技師をやって軍艦や駆逐艦を作っていた。
戸田に帰って郵便局長、学校の先生、博物館の館長、何か役職があると
皆回ってきて「先生」と呼ばれていた。真面目一徹で厳格。母は普通の主婦。

●少年時代

ポリンキーみたいな子供*1だった。
ポリンキーやピコーのポーズは子供時代にやっていたそのまま。
小学生のくせに「オリジナリティが1番大事なんです」などと言っていた。
父からは「雅彦の考えてることは解らん」といわれていた。
いつも大人に勝ちたいと思っていた。ヒヤヒヤしてる大人を見るのが好きだった。
海が家から百メートルくらいで毎日のように海で遊んでいた。
小さい頃から「外国人」と呼ばれていた
近所の子供とは一緒に遊ぶと言うよりは「教育」をしていた
遊び方を提案し説明し自分達で作っていた。
小さい頃から、人に何かを教えたいと、「教育」好き。
幼稚園より前から東大を目指していた。理由は1番すごい学校と聞いたから。
本屋が一軒もなかったから情報源が教科書くらいしかなかったから、
2年生の頃には全学年の教科書を読んでしまっていた
百科事典も好き。テレビは小2の時に入った。
面白いと思うことがあるとまず構造として理解していた。
小中学校の頃は野球に熱中。絵と作文と歌が下手だった。
小学校の頃、アメリカから小包が届き、そこに入っていた絆創膏をみて、
そのかっこよさとかわいさ、美しさに感動
表現への憧れはあったが、ルノワールには何も感動しなかったのに絆創膏ごときで
感動してしまった自分に困惑し「こういう面倒な表現の世界には
立ち入らない方がいい」と感じる。

●高校時代

地元の高校(沼津東高校)に行ったのに、皆から東京から来た人間だと思われていた。
高校時代、毎年文化祭で女の子の人気投票でいつもベスト3に入っていたが、
当時は東京の女子高の子と付き合っていた
高校の頃は先生の話を聞くというより、自分だったらどう教えるか、
この教え方は下手だとか、そんなことばかり考えていた。
数学の教師に「この解き方は綺麗ですねぇ」といわれ数学に目覚める

●大学時代

東大教育学部入学。
大学の頃、予備校で数学を教えていた。
教壇の上だったらいつ死んでもいいくらい幸せだった
大学からはアイスホッケーに熱中。
監督の指示を無視しフォーメーションや戦術を決めていた。
佐藤のグループは1年の時からフォーメーション重視でむやみにぶつかったり
しなかったので得点力は高く上級生に負けなかったが誰もほめてくれなかった。*2

電通時代

社会の仕組みを理解したいという理由でいろいろな企業に出入りできる
広告代理店の電通に就職。
最初の配属先はセールスプロモーション(SP)局印刷管理部。
印刷物のスケジュール管理、見積もり管理が仕事の中心。
27歳の頃ルービックキューブを10分で解いた
イメージだけで全体の構造がパッと頭に浮かんだ
それがきっかけになってイメージで考えるということを同時に理解でき、
映像が次々と浮かんでくるようになった。
当時大学生の藤幡正樹(CGアーティススト、芸大教授)に出会い、
佐藤がフォーマットから作成したスケジュール表と見積書を見つめ
「すごく、美しいです」と感動される。
パーティでおとずれた藤幡の部屋に佐藤が送った年賀状が額に飾られていたのを
見て自信を深める。
29歳の頃の決意をメモに書き残す。
「別のルールで物をつくろうと考えている。」
1ヵ月後 知り合いの催し(83年詩人の会)で何かやってくれないかと依頼され
チケットやパンフレットのデザインを担当。
その後原美術館ポスター、「ガロ」に漫画(84年8月号、12月号)を製作。
86年(31歳)クリエーティブ転局CMプランナー希望。

●プランナー時代

資料課に行き世界中のCMを見て「佐藤雅彦選抜コマーシャル」と
1本のビデオにまとめ、共通するルールを発見。
まだ1本も作ってなかった演出助手の黒田秀樹、新井文彦、舟山泰史、山内健司らと
夜通し企画を話し合う。
この3ヶ月でその後10年間分の企画の方法を完成
「スコーンスコーンコイケヤスコーン」「ポリンキーポリンキー
「ドンタコスッたらドンタコス」「バザールでゴザール」など、
強烈に耳に残るフレーズを駆使しつつ、シンプルでかわいらしい映像を用い、
アタマではなく、直接カラダに飛び込んでくるような作風*3は、
その後のCMに大きな影響を与えた。

●独立

94年電通退社、企画事務所トピックス設立。
7年にはゲームソフト「I.Q」を手がけ大ヒット
99年、映画「kino」を発表。
国民的ヒット曲「だんご3兄弟」を世に送り出した。
30代で広告、40代で数学と物理、50代には新しい形の教育をやる、
というのが目標に。

●SFC(慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス)教授

98年7月頃突然メールで「教授として迎えたい」という誘いを受け、
10年目を迎え新しい試みをしようとしていることに賛同し教授に就任。
この研究室から多くの生徒が「ピタゴラスイッチ」に参加し
その研究の発表の場として活用されている。


<参考文献>

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*1:「なにしてたの?」「教えてあげないよ、ジャン」とポーズつきで

*2:汗水たらして取った1点には「ナイスガッツ!」、佐藤らの得点には「シーン」

*3:詳細は#3に続く