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「8時だョ!全員集合」が出来るまで

ひと ブログ


日本のテレビ史上に残るパンクグループ、ザ・ドリフターズの功績を再検証せよ
"伝説のパンク・グループ"ザ・ドリフターズの独裁者、いかりや長介の苦悩と愛情


この「IMITATION GOLD」(id:makio169cm55kg)2つのエントリーが最高に面白かったので、コロっと影響されて居作昌果の「8時だョ!全員集合伝説」を読了。
いやー、面白い。


居作昌果は、1956年早稲田大学を卒業後「ラジオ東京放送効果団」で「物作り」をはじめるが、「相当、生意気だった」彼はわずか半年で「テレビ」の現場に追いやられることに。*1
連続ドラマ「孫悟空」を担当すればエンケンに口答えし、番組制作からほんの2〜3年で、番組宣伝課に異動することに。
この頃、ABC(大阪朝日放送)の番宣マンから「てなもんや三度笠」のプロデューサー、ディレクターの沢田隆治に放送記者会賞を取らせて欲しいと難題を持ちかけられる。
笑いやコメディーをテレビの中に認知させるのは意義があると考え、シリアスドラマやドキュメンタリーしか選考対象として頭のない記者クラブを6ヶ月以上口説き続け、見事受賞させる。
その後、演出部に復帰すると第1回の放送でスポンサーと大モメになっていた「お笑い頭の体操」のプロデューサーに担ぎ出されることに。その後高視聴率番組に成長する。
さらに引き継いでプロデュースした「クイズダービー」が大ヒット。
局内で一目置かれる存在になっていた。


TBSは当時土曜8〜9時において視聴率が低迷していた。
裏にフジテレビが「コント55号の世界が笑う」という強力な高視聴率番組があったからである。ここに「何とか視聴率の取れる番組を」と居作に番組企画の依頼が舞い込む。
「口出ししない」という条件で引き受けた彼は「コント55号」に対抗しうるものは何かと考えた。コント55号のハプニングとアドリブの「笑い」に対抗するには、時間をかけて徹底的に練り上げた「笑い」を作るしかないと結論を出す。
そして、その主役には「いかりや長介ドリフターズ」を抜擢した。*2
番組の企画が進み顔合わせの食事の時、いかりやは不安を口にする。
「今のコント55号は日の出の勢い。その裏でいくら俺たちが頑張っても、勝ち目がないんじゃないの。たいして視聴率もとれずに、結局、一番割りを食うのはドリフターズじゃないのかな」
すると、居作は思わず言う。
「そりゃあ、たしかに55号とドリフじゃあ、今は、月とスッポンかも知れない。だけどスッポンが月に勝てないと決まってるわけじゃない」


こうして居作昌果いかりや長介ドリフターズという仲間とともに「全員集合」というお化け番組を作り上げることになる。
互いに反目、対立をしながらの15年間の日々はまさに極上の青春ドラマであり、今日の「全員集合」の名場面集を見るにつけ居作昌果いかりや長介の両者の不在をただただ惜しむ他無い。

*1:当時はまだテレビが出来たばかりでラジオこそがメインだった

*2:この決断に「口出ししない」と約束したはずの局内は猛反対する。同じグループでバラエティーを作るならクレイジーキャッツでやるべき、と。