誰がサブカルチャーを殺すのか
前回のエントリ「電波少年的テレビ論」に引き続き「kamipro No.129」の特集から。
この特集で、様々な封印作品*1のその封印されていく経緯を取材し続ける安藤健二にもインタビューを試みている。
その中で安藤は、「テレビ」だけではなく「活字メディア」も危ないのだと口を開く。
これは凄く基本的な話なんですけど、そもそも「タブーについて書くこと自体、タブー」だったんです(笑)。
これは森達也らも同じように語ることも多い。
しかし、安藤の話すことは、さらに閉塞感を深くさせる。
実は基本的にこの(「封印作品」)シリーズって、テレビに限らず、ほかの媒体も思ったより取り上げてくれなかったんですよ。とくにサブカルチャー系の雑誌や出版社は、ほとんど無視されましたから。
そもそもサブカルチャー系のタブーを取り扱ってるわけだから。たとえば『宇宙船』っていう特撮系の雑誌も一切扱ってないですし。
考えてみればある意味当然のことかもしれない。
けれど、ある程度自由な風土というイメージがある(というかそれこそがメインカルチャーに対する優位である)はずのサブカルチャーの世界で「タブーについて書くこと自体、タブー」なのだという。タブーを面白がるのもサブカルのひとつの形だと思うのに。
だから孤独な闘いというか。やってもやっても広がらないというか。(略)
意外かもしれないけど、僕が最初にいた新聞ってメディアは意外とタブー感は薄いんですよ。もちろん自社や系列会社の悪口は書けないし、ある程度の暗黙の了解はあるけど、基本的に「業界のタブーを書いちゃいけない」とかはない。それに比べると、サブカル系の業界やマスコミのほうが全然、言論の自由がない(キッパリ)。
昔はそうでもなかったみたいですけど、ここ10年くらいでサブカル系のメディアって言論統制が厳しくなったんです。作品の著作権を持っている出版社やアニメ会社とか、ライセンサーの権利が強くなって編集側の権限が凄く弱くなった。アニメについて書いたら、アニメ会社のゲラチェックや検閲はあたりまえだし、特撮ものの雑誌も円谷や東映について書いたら、全部内容を見せなきゃいけない。で、原稿が赤だらけになって返ってくるとか。
大雑把に言えば、メインカルチャーに対する批評から生まれたのがサブカルチャーだと思う。しかし、そのサブカルチャーは、サブカルチャーを批評しない。
サブカルにもいろいろありますけど、いわゆるエンターテイメント系のメディアには、「ジャーナリズムや評論は存在しないな」って。