オードリー春日を変えた戦い

オードリー春日が不遇時代、「K-1」のトライアウト*1に参加していた。
この頃のことを「ゴング格闘技 09年03月号 」のインタビューで振り返っている。


きっかけは『Qさま』の「芸能界潜水選手権」での活躍だった。
そこで「体力系いけるんじゃない?」と事務所の人に言われ、格闘技にも興味がある、とポロッと口にしたのが全ての始まりだった。
「お前、M-1でもR-1でもダメだったら次はK-1しかないだろ!」と断れない語気で迫られ参加することになった。
しかし、会場に足を踏み入れた瞬間、自分が場違いな存在だと気付いた、という。
そこにいたのは、現役のプロ格闘家だったり、格闘技未経験者でもアスリートたちばかりだったのだ。
しかし、そこは「黒魔術」谷川貞治が主催するイベントである。
ある意味当然のごとく準合格という形で合宿に参加することになった。


その事実を相方若林が知ったのは「ラジかる」の芸能ニュースだった。

若林:あの頃「売名行為だ」ってすごい言われて、僕も嫌な思いがしたし、事務所に言われたままやらなくていいよって言ったんですよ。でも春日は「いや、やりたいんだ」って全然譲らないんです。お笑いをやってても春日が譲らないことってあんまりないから(笑)、これは何かあるんだろうなって思いましたよ。

合同合宿から2ヶ月後、春日は同じトライアウト組の山本哲也と対戦。
1度ダウンを奪われ判定負けを喫する。
この時、芸人仲間と会場に足を運んだ若林は「いてもたってもいられない感じだった」と言う。しかし、リングに上がってきた春日は長い付き合いの中でも初めて見る顔をしていた。

若林:ムッとする春日の顔なんかあんまり見れないですからね。試合を見ていたら、終わった後で「何であそこで行かないの?」みたいなことは絶対言っちゃいけないと思いました。(略)変な疎外感みたいなものはありましたね。

この試合後、若林は春日に、もう「K-1」を辞めるように言う。
しかし、春日は首を縦には振らなかった。

春日:「男」の部分だけでやっていたところはありますね。そういう場を用意されたら、出ていかないわけにはいかないじゃないですか。

若林はこの頃の春日の心境を代弁する。

若林:「自分は自発的な人間じゃない」みたいなことをフワッとした感じで言うんですよ。(略)要は自分から一歩出せない、自分できっかけを作れないのが直らなくて悔しいって。
             (略)
ホントにね、山本君との試合の後の春日は、ちょっと格好良かったですよ(笑)。
(最後の試合となったワン戦の最終ラウンドは)メチャクチャ手を出して、思いっきりカウンターを喰らって転がってましたからね(笑)。でも「もう寝とけよ!」って言うのに何度も立ち上がったり、倒されてゴロゴロ転がった後で振り返って相手を睨みつける春日を見て「こんな面があるんだな」って思いました。追い込まれて、追い込まれての人間の本性ですからね。


あの「M-1グランプリ」で「(自信が)なきゃ、ここに立ってないですよ!」と堂々と言い放てるメンタル面こそ、春日が「K-1」挑戦で手に入れたものだと、若林は言う。

若林:漫才をやってて、僕は調子が上がらない時もあるんですけど、春日はホントに一定なんですよね。

個人的にはこういった形での荒療治を正当化するのは好きじゃない。
事務所や周りの人間にとって、そういうのはある意味、楽で*2、失敗と成功の差も分かりにくく、安易な手段のような気がするからだ。
芸人を使い捨ての駒のように使っている感じもする。
実際は、本人が「(格闘技と漫才は)まったく別もの」というように本当は関係のないものなのかもしれない。
まったく次元は異なるが、サッカー元日本代表のオシムが、自分の何が起きても動じない精神力が、戦争を経験したことで高められたのではと問われ、こう答えている。

確かにそういう所から影響をうけたかもしれないが……。ただ、言葉にする時は影響は受けてないと言ったほうがいいだろう。
そういうものから学べたとするなら、それが必要なものになってしまう。

しかし、若林が臨場感たっぷりに語る、その戦いの記録はやはり感動的だ。


それにしても、当時の状況や心境を、本人よりも的確に言葉にし、春日から「丸々ね、同じことがいいたい」と言われる若林の表現力や客観性は改めて舌を巻く。

*1:「K-1」の日本人選手を育成するプロジェクト。元プロ野球選手の立川隆史、元パンクラス王者山宮恵一郎、元プロレスラー河野真幸らが参加した。

*2:相方は大変だろうけど