オリエンタルラジオが背負った十字架

十 [DVD]
クイック・ジャパン(82号)」の特集「テレビ・オブ・ザ・イヤー」の中で、板尾創路ピエール瀧の対談連載「ハチ公じゃなぜ剥製にされたのか?」にオリエンタルラジオ中田敦彦がゲストに招かれ、「テレビ」をテーマに語っている。
クイック・ジャパン(77号)」でのオリエンタルラジオのインタビューと併せて読むと面白い。


中田は『アメトーーク』の「中学の時イケてないグループに属していた芸人」に出演したことで広く知れ渡ったが、高校の頃は「ひどかった」。だから「勉強しかしなかった」という。
その結果、現役で慶応義塾大学に合格する。
そして一緒に合格した幼なじみから「二人で(お笑いの)サークルを作ろう」と誘われて、学園祭などでネタを披露するようになる。その後、他大学のお笑い好きとともにインディーズ活動っぽいことをしていくようになっていく。しかし、中田を誘った幼なじみは「プロになるつもりはない」と突然抜け途方にくれる。

東京でお笑いのインディーズ活動するのって、すっげえキツかったです。一応みんなで定期的にハコ借りてチケットを売ったりもしたんですけど、お客なんて5人くらいしか来なくて。毎回、友達の前でネタを披露してるだけみたいな感じで、「一体俺は何処を目指しているんだろう……」って。夢の欠片もない地獄みたいな光景でした。(82号)

やがて、中田は一度、芸人を諦め、バイト先と大学しか行かないような生活を始める。
しかし、仕事は全然やる気が出ずに、ダラダラとした自堕落な生活になっていった。

相変わらずとにかくモテなくて、付き合おうとする女性のハードルを限界までどんどん下げていって……。(82号)

それでも、フラれた中田は、「まだお笑い芸人をやっていたほうがモテるのかもしれない」と不純な動機で、バイト先で知り合った藤森慎吾とともにNSCへ。
オリエンタルラジオが誕生する。


「史上最速でブレイクした芸人」として売り出されたオリエンタルラジオ

僕らにそういうイメージを付けたい人がいるっていうだけの話で。別に僕らが何かしたわけでは全然なくて。「最速にしたいんだなー」とは思ってましたけど。(82号)

これはもう「現象」です。僕らがこうだからとか、ここでこうしたいからという理由では説明がつかないですよ。複合的な意思の力によって、僕らのキャリアができあがってしまった。(77号)

お笑いファンというのは、いわゆる「ポッと出」を嫌う傾向がある。
人気先行でアイドル的扱いを受けるような芸人を認めない。
事実、中田敦彦もまた、生粋のお笑いファンである。

僕もお笑いを見る側だったころはパッと人気が出るタイプの芸人さんは嫌いでした(苦笑)。逆に「なんであの人たちはこんなに面白いのに売れないんだろう」という芸人さんを応援したくなるタイプだったので、まさか、自分たちが……。(77号)

結果的に彼らは、抜群の知名度を得たのと引き換えに「ポッと出」の偏見と戦いを強いられるようになってしまう。それも戦場は、彼らにとってはまだ分不相応な冠番組のメイン司会という場所だった。

こんなことを自分で言うのはおこがましいですけど、実力で選ばれたんじゃないと思います。メディア全体が新しい血を欲しがって、そこにたまたま僕らがいたから選ばれただけだと思います。(77号)

「完全に自分たちの許容範囲を超えていた(藤森)」という彼らは、「仕事を憎んでいた。ファンすらも嫌いでした」とまでなるほど追い込まれていった。
(「どうせ今だけだ」という深層心理が)「ひたひたに満ちて」いるのを敏感に感じ、自分の番組を観てる人たちがみんなそう思ってるに違いないという思いが強くなっていく。
当時の心理を自身のブログではこう書いている。

正直言うと、僕らはいろんな番組をやらせていただいてますが、いまだに自分たちの番組でも落ち着かない。緊張する。警戒する。不信に思ったり。それは、来てくれるゲストさんに対しても、一緒に番組をつくっているスタッフさんに対しても。いろんなゲストさんが来てくれるが、とにかくこのひとどういう人なんだろうっていうのはメチャクチャ警戒してしまう。本当は俺たちのこと嫌いなのに、事務所に言われてイヤイヤこの番組出てるんではなかろうかとかね。被害妄想といわれればそれまでだけど、実際、バラエティに出たくない!怖い!苦手!という人もゲストに来たりするし、「オリラジって何がおもろいの?」って感じの人が来たりもするだろう。だからそれはあってもしょうがないんだけど、そういうことがけっこう気になったりする。スタッフさんにしても、仕事上無理して俺たちとやってるんじゃなかろうか、本当に俺たちのことを認めてくれているのだろうか。どうなのだろうか。とかはなんか考えてしまったりする。スタジオで笑いがあっても、無理矢理なんじゃないのかとかね。(2007/10/9)

やがて、任せられていた番組も終わりを迎えていく。

いきなりゴールデンで冠番組を持つようことになって、最初からとにかく毎回数字(視聴率)見せられてきました。スタジオではウケてるのに、本当に視聴者にウケているのかはわからない、視聴率が悪いからといって、どうすれば良くなるかもわからない……もう、パニックの連続でした。(82号)

しかし、この挫折が彼らを逆に強くした。

与えられたポジションに見合う実力がまだ僕らにないこと。
それはどう考えても間違いのないことだし、それゆえに番組が終わってしまうことも受け入れざるを得ないことです。
でも、だからといって下を向きたくなんかない。
この挫折は、僕たちの宝物です。
三年目の超若手では絶対に手に入れることのできない経験です。(2007/9/4)

そして、彼らは賞レースへ出ていく、という決意を固める。

勝ったら勝ったで出来レースといわれるかもしれないし、負けたらデメリットが大きい。でもね、じつはデメリットなんてないってことに気づいたんですよ。オリエンタルラジオって知名度は高いけど、面白いとは認知されてないんですから。結果、全部負けました。でも、それでいいんです。これが僕らの下積みなんですよ。お客さんに弱いところを見られる、負けるところを見られる……それは僕らが下積みを経なかったことに対する代償だと思うんです。(77号)

これは「格」が重要とされるテレビ界で生きる芸人にとっては大きな決断だっただろう。確かにカッコいい。
しかし、相方の藤森は、そんな中田に対しても彼の甘えを看破し、厳しい目を向けこう言ったのだという。

「あっちゃん、それじゃただのカッコつけだよ。だってちゃんとネタを作ってないじゃん」

その一言で目が覚めた中田は毎週ネタを作っていくようになる。


オリエンタルラジオは昨年あたりから積極的にひな壇のゲストや汚れ仕事もこなしていくようになった。

虚飾のスターとして捉えられているオリエンタルラジオを、生身の若僧として認識してもらうのは大事なことだと思うんです。(77号)

そして、当然のように、「分厚い壁に今ぶち当って」いる。
けれど昨年の初頭のブログにこう書かれている。

いろいろなことがあったし、もちろんこれからもあるし、たくさんいろんな人にいろんなことを言われるけど、最近は少し楽観的になれてます。
というより、なんだかふっきれたというか。
なんの自信かわからないですけども。
多分僕は大丈夫だなという妙な気持ちというかね。
お笑いと、お笑いを選んだ僕の人生が好きなら、僕は大丈夫だなと。(2008/2/9)