『芸能界誕生』ダイジェスト(1)

9月20日に発売となる『芸能界誕生』(新潮新書)。
すでに一部書店では店頭に並んでいるところもあるようで、読み始めてくださっている方もいらっしゃるかと思います。ありがとうございます!

今回は、本書の前半をダイジェストとして抜粋(補記等、一部修正しています)してざっくり紹介します。

序章 1958年の日劇エスタン・カーニバル

1958年に始まった「日劇エスタン・カーニバル」。すべてはここから始まりました。本書もその「第1回」も模様からスタートします。

1958(昭和33)年2月8日――。
その日の早朝には日劇の周りを大勢の人たちが二重三重に取り囲んでいた。そのほとんどは10代の若い女性たちだ。彼女たちは外で徹夜をしながら今か今かと開場時間を待ち構え、ある者は現在の表現でいえば「推し」の名前を叫び続け、ある者は居ても立っても居られずその場で踊り出した。
「いったい何事ですか!?」
本番を控え、深夜から早朝にかけてリハーサルをしていたところに警察官が飛び込んできた。公演を主催する渡辺プロダクションの副社長・渡邊美佐は混乱した。
「こんなに大勢集まって、何か起きたらどうするんだ!」 
その時、美佐は初めて外を見て「わぁ、スゴい!」と驚いた。
「前もって連絡してくれなくてはこっちが困るじゃないか!」
説教を続ける警察官に、「そんなこと言ったって、こっちだって分からなかったんだ。分かってたら苦労しない」と心の中でつぶやいた。
(序章 1958年の日劇エスタン・カーニバル)

堀威夫はその熱狂をこう振り返っている。

舞台にバンドが5つか6つ出ると、それぞれのファン同士で人気を競い合うような形になってああなったんだと思うね。ウエスタン・カーニバルで日本のコンサートが変わったと思いますよ。僕は音楽会というよりスポーツだと思った。勝った負けた、というのがウエスタン・カーニバル。これで興行形態が変わりましたね。それまでは音楽の世界に勝った負けたなんてなかった。
最初はサクラみたいに熱心なやつに紙テープを配ってやらせたのが、伝染病みたいにみんな自分で持ってくるようになっちゃった。駆け上がって抱きついたりなんかするようになってくると、やまとなでしこはそんなことをやると思ってないわけだね。だから日本の女性も変わったなって思ったよね。
堀威夫

「東京を震撼させた7日間」、あるいは「ロカビリーの7日間」――。
この熱狂は大きな社会現象となった。7日間で観客動員は、延べ4万5000人に達する大盛況だった。
(序章 1958年の日劇エスタン・カーニバル)

第1部 進駐軍とジャズブーム

時代は遡り、戦後まもなく。占領下で進駐軍が求めたのは、娯楽。とりわけ音楽でした。そこで生まれたのがバンドを斡旋する「芸能社」であり、そこから発展し現代型の「芸能プロダクション」が生まれていきます。現存する戦後初のプロダクションと呼ばれる「マナセプロダクション」が誕生するのは、仙台での偶然の出会いがきっかけでした。
やがて日本は独立。空前のジャズブームが到来します。

ある朝のことだ。北上川が流れる宮城県登米登米町(現在の登米市)にひとりの進駐軍将校が馬に乗ってやってきた。(略)
将校は頭を抱えていた。見渡す限りの田んぼと畑。わずかに家屋はあっても、彼の目にはただただ同じ風景にしか見えなかった。やがて方向感覚を失い道に迷っていた。一体いつになったら役場にたどり着けるのか。道行く日本人に話しかけても、英語がわからずただニヤニヤ微笑みかけられるか、酷い時は、一目散に逃げられる始末。途方に暮れていた。
ふと、川沿いを散歩している老婆が目に入った。どうせまた徒労に終わるのではないか、と思いつつも、他に方法はない。将校は彼女の元に馬を走らせ、「Hi!」と声をかけた。そして、役場にはどうやって行ったらいいのか、とゆっくりとジェスチャーを交えて尋ねた。
「この道をまっすぐ行くと、向こう側にありますよ」
彼女は、流暢な英語でそう答えた。将校は心底驚いた。なにしろ、こんな田舎道で、しかも老婆が綺麗な英語を喋っているのだ。信じられないという表情を隠せないでいると、彼女は続けてこう言った。
「うちの嫁はもっともっと英語が達者ですよ」
(第1章 仙台の曲直瀬家)

日本のジャズは東北から出てきたという一面もあるんです。ナンシー梅木さんも北海道からどうしてもジャズをやりたいからアメリカへ行きたいと思ったんだけど、「まず仙台に行って曲直瀬さんのところの音楽に触れたい」と言って、仙台にしばらくいたそうです。実は仙台はジャズの一大拠点のようになっていたんです。ジョージ川口さんや中村八大さん、松本英彦さんも来たことがあるし、平岡精二さんも来た。それこそ美佐と出会う前の渡邊晋さんもね。(曲直瀬道枝)
(第1章 仙台の曲直瀬家)

のちに“ビートルズを呼んだ男”と称されることになるプロモーターの永島達司も進駐軍ビジネスで活躍した男のひとりだ。

駐留軍時代からこの世界にいて秀逸の人間というのは永島達司氏。僕は70年近い付き合いなんだけど、これだけの人物というのは、よその業界を見てもあまりいないね。永島達司というのは、芸能界の中で一つの歴史の足跡として絶対に欠かすことのできない人。恐らくもう二度と出ないと思います、ああいう人物は。堀威夫
(第3章 芸能社の興亡)

ジャズミュージシャンは進駐軍キャンプを主戦場にしていたため、既存の芸能プロに所属しなくても活動することができた。しかし、進駐軍はもういない。米軍相手の仕事は急速に先細りし、進駐軍キャンプから生まれた「芸能社」は一気に衰退した。ジャズブームも下火になっていけば、バンドマスターや個人マネージャーに頼ったジャズミュージシャンたちはたちまち失業してしまうだろう。ジャズメンたちにもマネージャーが絶対に必要になってくる。マネジメント業を組織化し、企業化すること。それが、(渡邊)晋の新たな夢となったのだ。
「その夢を実現するために、ぜひ君が必要なんだ」
晋が美佐に初めてプロポーズしたのは1953年のことだった。
(第3章 芸能社の興亡)

第2部 ジャズ喫茶とロカビリーブーム

占領下の日本の若者たちは、ある者はアメリカの文化へ憧れ、ある者は金を得るため、ある者は流れに身を任せ、バンドを始めました。
やがて彼らはロカビリーを演奏するようになっていきます。まずはジャズ喫茶からティーンたちを中心に火がつき、ついに日劇での「ウエスタン・カーニバル」開催へとたどり着きます。

 うちが旅館をやっていて、部屋が空いていると賃貸でもいいよって下宿も受け入れてたわけ。そこに入ってきたのがシャープス&フラッツでベースを弾いていた舟木明行さん。あまりにも俺がチンピラっぽくなっていくのを心配したんだろうな、おふくろが。俺に内緒で舟木さんに相談したみたいなんだよ。そしたら「お母さん、じゃあ僕の仕事場へ連れて行ったらどうですかね。非行とか、そういうのから抜けられるかもしれない」って。それで横浜のEMクラブに連れて行ってもらったの。田邊昭知

当時、田邊は明治大附属中学校の2年生で15歳だった。母は渋谷で旅館を営み、女手ひとつで彼を育てていた。それでも、子供の頃の田邊は、父のいない寂しさを感じたことはなかった。それほど、母は明るかった。また、彼女の手腕で経済的にも苦しむことはなかった。
そんな環境だったから「自分がしっかりして母を支えなきゃ」という自立心は人一倍強かった。けれど、少年時代の田邊は何をどうすればいいかわからない。そんなときに出会ったのが「音楽」だったのだ。
(第4章 バンド少年たち)

 井原(高忠)さんというのは非常に几帳面なところがあってね。それから変に人を脅かすウイットみたいなものも持ち合わせている人。当時みんなたばこ吸っていて、井原さんも吸っていた。楽屋なんかで「1本頂戴」なんて井原さんに言うと、烈火のごとく怒られるわけ。「いいか、おまえら。家を出るときに自分が今日1日何本吸うかって分かってるだろう。俺はそれを持ってきているから、1本やるということは1本足りなくなっちゃう。だからちゃんと持ってこい」って。
時間もものすごく厳しかった。忘れもしないんだけど、昔のコマ劇場に向かって左角、今は大きなビルになっているけど、あそこが新宿松竹という映画館だったんです。そこに映画の合間に実演でワゴン・マスターズが出ていた。その実演の前の集合時間に、僕と小坂一也が5分遅れて行ったら烈火のごとく怒って、「帰れ」って話になった。帰っちゃったら一番困るのは井原さんのはずなんだけど(笑)。帰れって言っても帰らないという確信を持っていたんだろうね。当時いわゆる楽隊の連中というのは、どっちかといえば時間とか約束、金銭的にもルーズなところが格好のいいみたいな変な価値観があったんだけど、僕は井原さんのおかげで、そういう部分を鍛えられた。そういう意味でも感謝してますよ。
堀威夫
(第4章 バンド少年たち)

ヴィデオホール版「ウエスタン・カーニバル」は、日劇エスタン・カーニバルが始まる4年前の1954年から始まった。夏はハワイアン、春と秋にウエスタン・カーニバルを開催し、その他の月はジャズのコンサートを開催していた。
(略)
『ミュージック・ライフ』誌のリポートに「本邦ウエスタン界最大の催しのひとつ」で「何処のバンドでもこのカーニバルが近ずくと多忙の時間を割いて、当日のレパートリイ(演奏曲目)の総仕上げにかかる」と書かれているようにウエスタンバンドにとって重大なライブだったことがわかる。会場には入りきれないほどのファンが詰めかけ「客席からあぶれた人達は通路に坐る有様」だったという。その多くがティーンエイジャーだった。
「乱れとぶ花束と5色のテープは舞台と観客席をつなぎこの日の七つのバンドの四十八名のプレイヤー、歌手を驚かせた」とその様子がリポートされている。ここで興味深いのは、日劇エスタン・カーニバルを象徴する「客席からの紙テープ」が既にヴィデオホールでも飛んでいたということ。
すべての“準備”は整っていたのだ。
(第5章 もうひとつのウエスタン・カーニバル)

日劇エスタン・カーニバルで人生が変わったのは出演者たちだけではない。
カーニバルをプロデュースした渡邊美佐は、「ロカビリーマダム」あるいは「マダム・ロカビリー」などと祭り上げられ、時代のヒロインとなった。若い女性たちの羨望の対象となった、いわばもうひとりの時代の申し子だった。
当時の彼女の様子をリポートした記事にこんな記述がある。

「毎日楽屋口に陣取っていれば、女学生ならずとも、“マダム・ロカビリー“がだれであるか、くらいはすぐ判る。
ファンに囲まれた“平尾さん”も“敬ちゃん”も、“マダム・ロカビリー”をみると、照れたような笑いを浮かべて、彼女のあとについて行ってしまうからだ。その甘えたような目が、楽屋口のファンたちを、時にはセン望にたえがたくさせ、時には激しいわけの判らぬシットにおとしいれてしまうのである」

美佐は、こうした状況に「面はゆい」などと戸惑い、まるで不良少女の製造者のような扱いをされてカッと頭にきたと振り返っている。「第一、語感にたまらぬ不潔感があった。いかにも軽佻浮薄、そのくせ妙にこざかしい、ぬらぬらしたいやらしさを『マダム』の言葉から受け取った」という。
   (略)
渡邊美佐は、おそらく戦後初めて、ショービジネスの裏方として脚光を浴び、スターになったのだ。
(第6章 日本劇場とウエスタン・カーニバル)

物語は、「日劇・ウエスタン・カーニバル」によって大きな力を持った渡辺プロは、テレビの力をいち早く見抜き、その勢力を拡大。一方、その「ウエスタン・カーニバル」企画者のひとりである堀威夫は、やがて渡辺プロと袂をわかち対抗するプロダクションを作っていく「第3部 テレビと和製ポップス」へと続いていきますが、今回はここまで。
是非、本書でお確かめください!

『芸能界誕生』の誕生

9月20日発売の『芸能界誕生』(新潮新書)、いよいよ見本も到着し、発売間近となりました!
書店によっては今週末辺りに並ぶところもあるのではないかと思います。
新書としては限界に近い334頁の大ボリュームでずっしり。読み応えのあるものになったのではないかと自負しています。

この本は、一本の電話から始まりました。
相談したいことがある
ある日突然かかってきた電話の主はなんと「ハウフルス」の菅原正豊さん。
言わずと知れた『タモリ倶楽部』、『ボキャブラ天国』、『メリークリスマスショー』、『いかすバンド天国』など数多くの名番組を手がけたテレビ界の大物です。『新潮45』で取材し「テレビ屋稼業バカ一代――ハウフルス・菅原正豊」と題した人物ルポを書かせていただいた縁がありました。
(※参考:さんま×桑田佳祐&ユーミンによる伝説的音楽番組『メリー・クリスマス・ショー』がもたらしたもの
詳しい話を伺いに行くと同席していたのは『全部やれ。』で取材した元日テレの渡辺弘さん(『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』、『マジカル頭脳パワー!!』、『THE夜もヒッパレ』などなど)。2人は僕に言いました。
書いてほしいテーマがあるんだ」と。

テレビ界のビッグネームのお二人が僕に話してくれた企画は自分だけでは手に余る壮大なものでした。
そこで僕は『笑福亭鶴瓶論』でご一緒した編集者・金寿煥さんに協力を仰ぎました。
だから『芸能界誕生』は、僕の過去の仕事のつながりで生まれたチームで作られたものなのです!

菅原正豊・渡辺弘両氏の人脈とご尽力のお陰で、マナセプロの曲直瀬道枝さん、ホリプロ堀威夫さん、田辺エージェンシー田邊昭知さん、飯田久彦さん、渡辺プロ新卒1期生の工藤英博さん、3期生の阿木武史さんを始めとするなかなか取材できない方々に取材することができました。

物語は宮城の片田舎で騎馬米兵が老婆に道を尋ねたことから始まります。それが現代の「芸能界」が生まれる“大河の一滴”でした。
そこから様々な星がつながっていき、新しい現代の「芸能界」が生まれていくのです。
ジャズ、ロカビリー、GSブームを通して変遷する芸能ビジネス、成功と挫折、裏切り、そして堀威夫田邊昭知の固い絆…。そんな青春群像劇です!

【目次】
序章 1958年の日劇エスタン・カーニバル
第1部 進駐軍とジャズブーム
  1章 仙台の曲直瀬家
  2章 占領下のバンドマン
  3章 芸能社の興亡
第2部 ジャズ喫茶とロカビリーブーム
  4章 バンド少年たち
  5章 もうひとつのウエスタン・カーニバル
  6章 日本劇場とウエスタン・カーニバル
第3部 テレビと和製ポップス
  7章 火種
  8章 テレビ時代の到来
  9章 レコード会社と芸能プロダクション
第4部 男性アイドルの系譜とGS旋風
  10章 御三家とジャニーズ
  11章 キャンティザ・スパイダース
  12章 ザ・ビートルズグループ・サウンズ
終章 サヨナラ日劇エスタン・カーニバル

巻頭には「前説みたいなもの」と題してなんとハウフルス会長・菅原正豊さんが最高の前口上を書いてくださっています。これだけでも読んで欲しい名文!痺れます!

1958年の「日劇ウエスタン・カーニバル」

日劇エスタン・カーニバル」をご存じでしょうか。
ある世代にこんな質問をすれば、「バカにするな!常識だろ!」と怒られてしまうであろうほど、日本の音楽史を代表するライブイベントです。
その名の通り「日劇」こと日本劇場を舞台に行われていました。一方「ウエスタン」という名前がついていますが、「ウエスタン」の祭典と呼べるのは初期まで(といっても初期でさえもウエスタンというよりはロカビリー)。その後は様々なジャンルのミュージシャンが出演していました。ミュージシャンが一堂に会するという意味では音楽フェスのはしりと呼べるのかもしれません。
日劇といえば、日本随一の権威を誇っていた劇場。そこに熱狂的なティーンのファンが押し寄せました。

第1回日劇エスタン・カーニバルのパンフレット

東京を震撼させた7日間

とりあえず概要を知るために便利なウィキペディアから引用すれば、1958年2月に1週間にわたって開催された「第1回日劇エスタン・カーニバル」は、「観客動員数は初日だけで9,500人、1週間で45,000人を記録した。この数字は、ドーム球場日本武道館といった大規模なコンサート会場が存在しない1950年代当時としては、異例の記録である。この企画が当たったことで、以後も定期的に開催されるようになった。1950年代にはロカビリーブームを生み、1960年代後半にはグループ・サウンズ(以後GS)ブームが巻き起こった」とあります。
当初、「日劇エスタン・カーニバル」は、出演バンドのほとんどが無名な存在だったため、開催に難色を示され、普段客の入らないとされる二・八(ニッパチ=2月と8月)ならば、と了承を得て開催されました。けれど、前述のように予想を遥かに上回る大盛況。「東京を震撼させた7日間」とまで評されました。その結果、1958年の初年度だけで、2月、5月、8月、12月と4回も開催されることになりました。
平尾昌晃、山下敬二郎ミッキー・カーチスが「ロカビリー3人男」と呼ばれ人気が爆発する着火点は「第1回日劇エスタン・カーニバル」でした。また、中期にはザ・スパイダースザ・タイガース、ザ・テンプターズなどのGSバンドが熱狂を生み、さらには、(初代)ジャニーズやフォーリーブスなど初期ジャニーズアイドルグループの活躍の場のひとつになっていました。

日劇エスタン・カーニバル」が始まった1958年は、どんな年だったのでしょう。
子供たちの間では、フラフープが大流行していました。また、読売巨人軍長嶋茂雄が入団したのがこの年です。全盛期の国鉄スワローズの大エース・金田正一を相手に4打席4三振というデビューで強烈なインパクトを与えました。当時の国民的ヒーローと言えば力道山。ちょうどこの年、ロサンゼルスでルー・テーズを破り、インターナショナル選手権を獲得しました。相撲では栃錦若乃花が名勝負を繰り返し「栃若時代」が始まりました。こうしたヒーローたちの人気に一役買ったのがテレビでした。この年、電波塔である東京タワーが竣工。初の民間出身の皇太子妃として「ミッチーブーム」が起こり、翌年予定されていた結婚パレード中継などを契機にテレビ普及率が急増。「ラジオ」から「テレビ」への転換期でもありました。

「横文字系」芸能プロダクションの誕生

そう、この1958年は、芸能界あるいはショービジネスの大きなターニングポイントだったのです。
その震源地こそ、実は「日劇エスタン・カーニバル」でした。
なぜなら、この1958年の「日劇エスタン・カーニバル」に、その後「芸能界」で重要な役割を担う人たちが揃っていたからです。
この企画を日劇に持ち込み「ロカビリーマダム」などと呼ばれ脚光を浴びる渡辺プロダクション渡邊美佐やその夫の渡邊晋はもちろん、美佐の両親で「戦後初の芸能プロダクション」と呼ばれるマナセプロを興した曲直瀬正雄・花子夫婦やその娘の曲直瀬信子や翠、そしてのちに家業を継ぐことになる曲直瀬道枝もまだ10代の頃に会場に訪れていました。
このライブの企画発案者でありウエスタンバンド「スイング・ウエスト」のリーダーとしてギターを弾いていた堀威夫は、のちに渡辺プロの対抗馬となる「ホリプロ」を設立することになります。
スイング・ウエストにはもうひとり「芸能界」で重要な存在となる人物がいました。ドラマーであった田邊昭知です。彼はその後「ザ・スパイダース」の活動を経て、裏方に回り「田辺エージェンシー」を設立します。
山下敬二郎のバンド「ウエスタン・キャラバン」のリーダーは相澤秀禎。彼はのちに「サンミュージック」を立ち上げました。
山下敬二郎の付き人であった井澤健はその後、「ザ・ドリフターズ」のマネジメントを長年担当し「イザワオフィス」を指揮することに。
平尾昌晃のマネージャーを務めていたのは「呼び屋」として名を馳せる永島達司でした。のちにビートルズ招聘を成功させるプロモーターとして有名です。平尾自身もやがて裏方にまわり作曲家として大成していきます。それはミッキー・カーチスも同様で、キャロルなどのプロデューサーとしても力を発揮していきました。
夏に行われた第3回には「井上ひろしドリフターズ」も参加。ここにはのちに「第一プロダクション」を興す岸部清がいました。「上を向いて歩こう」で世界的ヒットを飛ばす前の坂本九ドリフターズのバンドボーイからメンバーに昇格し、「日劇エスタン・カーニバル」の舞台を踏んだのもこの回。その坂本九の勇姿を見ようと客席にいたのは、彼の同級生でもあった飯田久彦。第一プロに所属し歌手としても「ルイジアナ・ママ」で大ヒットすることになる彼もまた、のちに裏方へと回り、ディレクターとしてピンク・レディーなどを育てていくことになります。
堀とともにこのライブを発案した草野昌一は雑誌『ミュージック・ライフ』でポピュラー音楽文化を啓蒙するとともに訳詞家「漣健児」として和製ポップスの源流を生み出しました。その『ミュージック・ライフ』にも執筆し、ブレーン的立場でウエスタン・カーニバルを支えたのが日本のテレビ草創期を代表するテレビマンの井原高忠。既に日本テレビの局員として番組制作をしていましたが、元々はバンドマン。かつての同僚である堀らを外側から支援していました。また、ジャズミュージシャンとして活躍していた中村八大は、渡邊晋から日劇エスタン・カーニバルを観て勉強するようにと言われ日劇を訪れています。その帰り道、有楽町の路上で永六輔とばったり会い、その後、数多くのヒット曲をつくるいわゆる「六・八コンビ」が誕生するのです。
加えていえば、この後の日劇エスタン・カーニバルではジャニーズ事務所ジャニー喜多川も重要な役割を果たすことになります。
ちなみに堀威夫は、戦前からある旧来型の芸能プロダクションを「縦文字系」、戦後生まれた新しい形式のプロダクションを「横文字系」と区別しています。
つまりは戦後日本の「芸能界」を支える代表的な「横文字系」芸能プロダクションの創設者の多くが「日劇エスタン・カーニバル」関係者であり、それを表から裏から支える人物も少なからずそうだったのです。現代日本の「芸能界」=芸能ビジネスは、日劇エスタン・カーニバルから始まったと言っても過言ではないのではないでしょうか。

では、どうしてプレイヤーであった彼らが裏方に回り、芸能プロダクションを立ち上げることになったのか。
若者たちがどんな苦悩と挫折を味わいながら、そこにたどり着いたのか。
そんな群像劇を描きたいと思い、マナセプロの曲直瀬道枝さん、ホリプロ堀威夫さん、田辺エージェンシー田邊昭知さん、飯田久彦さん、渡辺プロ1期生の工藤英博さん、3期生の阿木武史さんを始めとする関係者の取材で得た貴重な証言や過去の資料をもとに執筆したのが、『芸能界誕生』です。

9月20日新潮新書から発売されますので是非!

2019年読んだ本10選――とにかく『聖なるズ―』が凄かった

もの凄い読書体験でした。
聖なるズー』は、常軌を逸した面白さで間違いなく自分にとって2019年のベスト書籍。自分の中の常識が次々と剥がされていきました。

聖なるズー
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濱野 ちひろ
集英社
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動物とセックスをする人たち――というと、僕らは眉をひそめる。「おぞましい」とさえ思う人も少なくないでしょう。人間にとっての禁忌だと。
『聖なるズ―』は、「動物性愛者」たちを描いたノンフィクション。ドイツの動物性愛者による 団体「ZETA( Zoophiles Engagement für Toleranz und Aufklärung)/ゼータ(寛容と啓発を促す動物性愛者団体)」のメンバーを中心とした合計22人(うち女性が3人)と、著者が時に寝食をともにしながら対話した記録です。

動物とのセックスといって僕たちがまっさきに思い浮かべるのは「獣姦」でしょう。けれど、「獣姦(bestiality)」と「動物性愛( zoophilia)」は似て非なるものだという。動物性愛者は自らを示す「zoophile(ズーファイル)」を略し「ズー」と呼びます。

獣姦は動物とセックスすることことそのものを指す用語で、ときに暴力的行為も含むとされる。そこに愛があるかどうかはまったく関係がない。一方で動物性愛は、心理的な愛着が動物に対してあるかどうかが焦点となる。

動物性愛者は自分の愛する特定の動物の個体を「 パートナー」と呼び、人によっては「妻」や「夫」と表現する。彼らにとってその動物は決して「ペット」では ない。 複数の動物を飼っている場合は、「彼がパートナーで、ほかはペット」と説明されることもある。パートナーはひとりにつき一頭の場合が多い。理由を尋ねると、多くの人々が「その動物だけが自分にとって特別な存在だから」と説明する。

ズーのパートナーは犬や馬がほとんど。ゼータには猫をパートナーに選ぶメンバーはいないそうです。猫は人間との体格差が大きく、かつ性器も小さいので猫を傷つけないでセックスをするのが不可能だからです。
ズーは愛情を持たず、動物とのセックスだけを目的とする「ビースティ(獣姦愛好者)」や、動物を苦しめること自体を楽しむ「ズー・サディスト(動物への性的虐待者)」を嫌います。
けれど、多くの人にとってそれは区別がし難い。だから、「動物へのセックス」自体を禁忌としてタブー視します。そこに動物に対するレイプ、暴力じゃないかという疑惑が漂うからでしょう。なぜなら、動物は人間に対し、意思表示ができません。人間の性的欲求の道具にされていると思うからです。
本書でも指摘されているとおり、動物性愛に対して抱く嫌悪感は、「小児性愛ペドフィリア)」に対するそれと近い。

ここには対等性にまつわる問題が横たわっているように私には思える。「大人と子どもは対等ではない」という感覚と、「人間と動物は対等ではない」という感覚は近似している。人々がこのふたつを並べがちなのは、「人間の子どもも動物も、人間の大人ほど知能が発達していない」という認識があるからだろう。特にそれは言語能力に顕著に表れる。動物は言葉を話せず、小児も小さければ小さいほど言葉を操れない。

多くの人が犬などのペットを「家族」だと形容します。けれど、いくら成犬になろうと「子ども」として扱われます。

犬たちが「子ども」であるからこそ、人々は無意識に「ズーフィリア」と「ペドフィリア」を重ね合わせて考えてしまうのだろう。
一方、ズーたちの犬に対するまなざしは、一般的な「犬の子ども視」のちょうど逆だ。彼らを成犬を「成熟した存在」として捉えている。彼らにとって、パートナーの犬が自分と同様に、対等に成熟しているという最たる証拠は、犬に性欲があるということだろう。彼らにとって犬は人間の5歳児ではないし、犬が「人間の子どものようだから好き」なのではない。

「犬とのセックスは、自然に始まるんだよ」
「犬が誘ってくるんだよ。犬が求めてくるんだ」
犬とのセックスを語るズーの証言に僕は困惑します。にわかには信じがたい。けれど、ズーたちは異口同音に語ります。

「僕にはむしろ、どうして多くの人がわからないのかが、わからない。喉が渇い渇いている、お腹が減っている、遊びたがっている、そういうことはわかるのに、なぜセックスのことだけわからない? 愛犬家ですら、わからないと言うんだからね。動物たちと本当に一緒にいたら、わかるはずだと思うけどな」

そう言われてみれば、確かにそうかもしれません。犬を飼った経験がある人なら、彼らが今何をしたいのか、喜んでいるのか、悲しんでいるのか、怒っているのか、そういうことは「わかる」。(それが人間の勝手な勘違いだったとしても)半ば確信めいた感覚があります。そして思い返せば、彼らが性的に欲情している素振りを見せることもあったような気もするのです。そんなことがあるはずがないというほうが、論理的ではないはずです(その対象が人間に向いているかというと、そこにはまだ一段壁があるような気がするけど)。

「動物には、人間と同じようにパーソナリティがある」とズーたちは言います。日本語に直訳すると「人格」や「個性」だけど、その訳では彼らが指し示すものを正確には理解できないと。それは「自分と相手の関係性のなかから生じたり、発見されたりするもの」だといいます。

じっくり時間をともに過ごすうちに、相互に働きかけ合って、反応が引き出され合う。そこに見出されるやりとりの特別さを、ズーは特定の動物が備えるパーソナリティだと表現している。

彼らがもっとも重視にしているのは、「動物との対等性」*1。だから、彼らは動物に人間とのセックスの仕方を教えたりはしない。そんなことをすればパートナーを「セックス・トイ」のように扱うことになるから。「対等性」は一瞬で崩れ去ってしまう。動物自身が望まない限りセックスを行わないという彼らは、自分がズーと自覚している人でも、動物とのセックスが未経験の人も少なくないそうです。

「セックスの話題はセンセーショナルだから、みんなズーの話を性行為だけに限って取り上げたがる。だが、ズーの問題の本質は、動物や世界との関係性についての話だ。これはとても難しい問題だよ。世界や動物をどう見るか、という議論だからね。ズーへの批判は、異種への共感という、大切な感覚を批判しているんだよ」

まさに本書は「世界との関係性」をめぐる話です。
これを読む前と後とでは、世界と動物たちへの見方が劇的に変わっていきました。それはあまりにも鮮烈な体験でした。

聖なるズー
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濱野 ちひろ
集英社
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ちなみに僕がこの本と同時並行で読んでいたのが能町みね子の『結婚の奴』と、長江俊和の『恋愛禁止』。
どちらもまったく違う話なんだけど、前者は、社会が作った「普通」という規範に馴染めず、自分なりの他者との関係性をあり方を考え構築していくもので、後者が「愛」と「支配」をめぐる話で、根底では『聖なるズ―』とリンクしている感じがして、それを含めて思考が巡り巡るような刺激的な読書体験が年末にできました。

結婚の奴
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能町 みね子
平凡社
売り上げランキング: 756

恋愛感情のない夫(仮)と“結婚”生活を始めた顛末やその過程での思考を選びぬかれた語彙で綴った本。めちゃくちゃ共感できる部分も、まったく逆の部分も、考えもしなかったことも、リズムの良い文章にうっとりしながら、思考の渦の中に漂える感じが心地よい。

恋愛禁止
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長江 俊和
KADOKAWA (2019-12-25)
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『放送禁止』の長江俊和による『禁止』シリーズの最新作。精神的に支配されていた男を殺した主人公の女性。だが、なぜか忽然と消える犯罪の痕跡。冒頭からグイグイ引き込まれます。


その他、今年読んだ本で印象に残った本を挙げていきます。

ナイツ塙による「現代漫才論」。もはや説明不要の面白さ。

今夜、笑いの数を数えましょう
いとう せいこう
講談社
売り上げランキング: 189,581

こちらも「お笑い論」。いとうせいこうが、倉本美津留ケラリーノ・サンドロヴィッチバカリズム枡野浩一宮沢章夫、きたろうと対談。『言い訳』とあわせて読むとそれぞれの面白さが倍増します。

僕の人生には事件が起きない
岩井 勇気
新潮社
売り上げランキング: 204

大好き。

つけびの村  噂が5人を殺したのか?
高橋ユキ(タカハシユキ)
晶文社
売り上げランキング: 2,137

一夜にして5人の村人が殺害された「山口連続殺人放火事件」のノンフィクション。noteで話題になり書籍化。ずっと漂っている不穏な感じがなんとも言えない読後感を引き起こす。

マゾヒストたち: 究極の変態18人の肖像 (新潮文庫)
松沢 呉一
新潮社 (2019-10-27)
売り上げランキング: 10,568

乳首攻めされ続けた結果、子供の小指ほどの乳首になった男、馬になりたい男、身体改造マニア、盲目のマゾ、金蹴りフェチ、睾丸を摘出し女王様にプレゼントする男……と様々なマゾの男たちを描いた本。人間…!ってなる。と同時に日本におけるSM史を俯瞰できるようにもなっていて興味深かったです。

新宿二丁目 (新潮新書)
伏見 憲明
新潮社
売り上げランキング: 103,460

新宿二丁目がいかにして世界に類を見ないゲイタウンになったのかを解き明かすのだけど、それだけではなくジャズ喫茶の成り立ちやそれがゲイバーとリンクしていく歴史とか、それに大きな役割を果たした野口親子の話とか、新宿文化の話とか、ゲイバーを通して見る様々なものの情報量が多くて、読み応えたっぷり。

『家、ついて行ってイイですか?』などを手掛ける高橋弘樹の著書(昨年末刊行されたものですが)。この手のテレビマンの発想術や演出論的な本の中でもダントツに面白かったです。読むことで実際にそれを「体験」できるように書いてあって納得感がものすごい。まさに「使える」本。また、そこから漂う著書の“内側”が漂ってくるのもとてもいい。

売れるには理由がある
戸部田 誠 てれびのスキマ
太田出版
売り上げランキング: 91,513

そして、忘れてはいけない僕の著書。様々な芸人の代表的ネタからなぜそのネタが生まれたのか、どうしてそのネタがその芸人にとっての代表作になったのか、みたいなことを書いた本。上記の本とあわせて是非!

*1:ズーの人たちは「動物は裏切らない」ということを強調するが、僕はこの点は引っかかった。「裏切らない」というより「裏切れない」のではないかと。だとするなら、そもそもの前提として「対等」ではないのではないかと

芸人たちが己の人生を「0→1」にしたあの頃を描いた、おとぎ話

3月26日(火)に太田出版より新刊『売れるには理由がある』が発売されます!!

売れるには理由がある
戸部田 誠 てれびのスキマ
太田出版
売り上げランキング: 11,441

本書は『アサヒ芸能』で掲載していた「芸人の運命変更線」という連載をまとめたものです。毎回、様々な芸人を一組取り上げ、その“代表作”を紹介しつつ、解説を加えたものです。解説と言っても、そのネタの何が面白いのか、何が新しいのかというようなネタ自体の批評ではありません。それが生まれた経緯や、そのネタに関するエピソードなどを通して、その代表作がその芸人でなければ生まれなかった、その芸人ならではなものであることを解き明かしていこうというものです。
この連載を始めた動機のひとつに、芸人の代表作をちゃんと紹介しているような本が存在しないなあと思ったからというのがあります。もちろん、ネタを活字化することなんて野暮で無粋なことだと思います。何より、その面白さを伝えきることはできません。けれど、だからといってそういう本がないままでいいとは思えなかったのです。
ですが、この連載は、志半ばで終わってしまいました。かなりショックでした。なんとか続けたいと思っていたところ手を差し伸べてくれたのが、復刊した『CONTINUE』でした。そこで内容はそのままに、タイトルを「2020年てれびの旅」として再開できたことで、念願叶って本書が刊行できることになりました。
今回のラインナップは以下のとおりです。

第1章
ダウンタウン「トカゲのおっさん」
ザ・ドリフターズ「もしも威勢のいい銭湯があったら」
ナインティナイン「『岡村オファーがきました』シリーズ」
極楽とんぼ「ケンカコント」
さまぁ~ず「コント・美容室」
ナイツ「ヤホー漫才」
内海桂子・良江「三味線漫才」
横山やすし・西川きよしやすきよ漫才」
ブラックマヨネーズ「漫才・ケンカの強い男を目指そう」
博多華丸・大吉「漫才・ユーチューバーになりたい」
キャイ~ン「僕はこれじゃないよ、これだよ」
南海キャンディーズ「男女漫才」
オードリー「ズレ漫才」


第2章
出川哲朗「出川イングリッシュ」
伊東四朗「電線音頭」
ダチョウ倶楽部「どうぞどうぞ」
FUJIWARAフジモン「ガヤ」
レイザーラモンRG「あるある早く言いたい」
イジリー岡田「高速ベロ」
テント「クモの決闘」
ハリウッドザコシショウ「誇張モノマネ」
明石家さんま「雑談」


第3章
ツービート「毒ガス漫才」
B&B「もみじまんじゅう」
とんねるず「乱闘事件」
髭男爵「貴族のお漫才」
おぎやはぎ「脱力系漫才」
バカリズムトツギーノ
伊集院光芳賀ゆい
オリエンタルラジオ「PERFECT HUMAN」
タモリ「四カ国語麻雀」
トニー谷「さいざんす・マンボ」
爆笑問題「時事漫才」


第4章
古坂大魔王「ピコ太郎『ペンパイナッポーアッポーペン(PPAP)』」
笑福亭鶴瓶「局部露出事件」
毒蝮三太夫「ババア中継」
コント55号「コント・机」
ウッチャンナンチャン「ショートコント・レンタルビデオショップ」
ロバート・秋山「体モノマネ」
コロッケ「早送りモノマネ」
片岡鶴太郎「おでん芸」
古舘伊知郎「ドリンク売り」
バイきんぐ「なんて日だ! 」

このリストを見てもらってもわかると思いますが、僕が挙げた“代表作”は、漫才やコントやギャグなどの、いわゆる“ネタ”だけではありません。番組企画やそこで起きた“事件”なども含んでいます。ネタこそが芸であるという考え方もあるとは思いますが、僕はそうは思っていないからです。番組等での立ち回りのひとつひとつをとっても、その芸人の“芸”が宿っているはずなのです。このリストを見るだけでも、笑いがいかに多様かがわかるのではないかと思います。
イラストは『CONTINUE』連載時同様、花小金井正幸さんにお願いしました。イキイキと躍動感あふれる芸人のイラストは、それだけでも本書を手にとってもらう価値がある最高のものです!
そして帯文を書いていただいたのが髭男爵山田ルイ53世さん。今更説明するまでもない文才と批評眼をお持ちの方ですが、意外にも帯文を寄せたのは初めてだそうで、こんな光栄なことはありません。お引き受けいただけると聞いたときは飛び上がって喜びましたが、届いたコメントを読んであまりの感激で動けなくなりました。

これは芸人たちが己の人生を「0→1」にしたあの頃を描いた、おとぎ話である。
エピソードを収集し、教訓や方法論を抽出し、著者の鮮やかな筆で編み上げた、グリムやイソップに続く「スキマ童話」。
上質な短編集として楽しむもよし、成功のノウハウ、生きるための知恵を授かるもよし。
何かしらのジャンルで“一発”当てる、その助けとなるだろう。   山田ルイ53世

なんと含蓄のある言葉でしょう。
「cakes」では、試し読み的な連載が始まっています。
cakes.mu

そんなわけで、『売れるには理由がある』3月26日発売です!
ご予約はこちらから!

売れるには理由がある
戸部田 誠 てれびのスキマ
太田出版
売り上げランキング: 11,441

落ちこぼれの特権

いよいよ翌日の5月11日、文藝春秋社より『全部やれ。 日本テレビ えげつない勝ち方』 が発売されます!!

これは、昨年『週刊文春』にて10回(前編5回、後編5回)にわたり短期集中連載された「日本テレビ『最強バラエティ』のDNA」を大幅に加筆修正及び再構成したものです。
80年代低迷していた日本テレビが、12年連続視聴率三冠王絶対王者フジテレビを1994年に逆転するまでを当時、最前線で戦った当事者たちの証言を元に描いたノンフィクションです。
雑誌連載という形式上、どうしても文字数の関係で削らなければならなかったエピソードなどを追記したのはもちろん、連載時には果たせなかったライバルであるフジテレビ側にも追加取材を行い、新たな章を書いています。
さらにエピローグには、のちに日本テレビを揺るがした“あの事件”にも触れています。

日テレが苦手

正直言って、僕は日本テレビのバラエティが苦手でした。
『新春TV放談』では毎年バラエティ番組の人気ランキングが発表されます。
f:id:LittleBoy:20180510202058p:plain
こういうランキングでも日テレの強さは目立ちます。
が、僕は「テレビっ子」を自称しながら、ここに挙げられているような日テレの番組をほとんど見ていませんでした。
実際に見れば確実に面白いのだけど、なぜか積極的に見ようとしなかったのです。
それが「苦手」ということなんだと思います。

そんな僕に『週刊文春』から日テレについて書いてみませんか、という話をいただき、正直戸惑いました。
自分でいいのか? 大丈夫だろうか?って。

ちょうど同じ頃、「文春オンライン」の不定期連載「テレビっ子」シリーズが始まりました。
最初のゲストは、『新春TV放談』にも出ているヒャダインさん
そのときに僕は、テレビっ子の好きな番組とは乖離があるんじゃないかということを聞いてみました。
するとヒャダインさんはこのように答えました。

ヒャダイン:そうなんですよね。でも一般的にはそういうことなんだなと思いました。マスはこっちが好きなんだなと。マスが好きなものを供給している日テレというのは大したものだなと思います ね。だからいい意味で日テレって物凄く〝下品〞なんですよね。みんなが欲しいものをリサー チして、なりふり構わず出すという。そこにプライドもへったくれもない。あの感じがランキ ングにも出ていて、逆にぼくは非常に好感が持てました。内容云々は抜きにして、ビジネスとしてちゃんとやっている。テレビの種火を消さないようにしてくれているじゃないかと思います。

「いい意味で下品」という言葉に合点がいき、「 テレビの種火を消さないようにしてくれている」という指摘にハッとしました。
確かにそうだ。
もうテレビはダメだ、などと言われている時代に、日本テレビはそれでも歯を食いしばって、 下品とも言われるくらいのサービス精神で、視聴者に見やすい番組を提供し続けている。世間 とテレビをギリギリでつなぎとめている。 それに気づいた時、やっぱり日本テレビについて書きたいと思いました。

「残念ながら……」

ところで、本書には僕の中で仮タイトルがありました。
それは『落ちこぼれの特権』。
なぜなら、本書の登場人物はみんな“落ちこぼれ”だったからです。

そもそも日本テレビ自体がそうでした。
日本初の民放テレビ局として黄金時代も経験していましたが、80年代は低迷。民放3位が定位置。ときには最下位がすぐ側ということも。要因は様々ですが、組織として落ちこぼれだった。
たとえば『電波少年』シリーズの土屋敏男さんは、失敗続きのため一時は制作者として失格の烙印を押された。
クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』の小杉善信さんは、「番組を始めるとすぐつぶれる」と有名だった。
マジカル頭脳パワー!!』の渡辺弘さんも、『スーパーJOCKEY』立ち上げの頃には、ビートたけしから、このままこの番組を続けていれば、自分がそれまで築いてきたものが崩れてしまうから「やめたい」とまで言われた。
『SHOW by ショーバイ!!』『マジカル』の五味一男も、とあるデータを見て、自分のこれまでの全人生を否定されるような経験をした。
社長である氏家齊一郎も、一時は日テレを“追放”される。経営者として落ちこぼれでした。

「テレビ関係者が集まるパーティに行くと、フジテレビの人たちが一番いい中央の席に自然と座っているんです。これに何の疑問も感じなかった自分に気づいた時に、悔しくて、情けなくて……」(小杉)

そんな落ちこぼれ集団が、いかに強大な敵であるフジテレビに立ち向かい、勝利したかを描きました。

僕はこれまで、直接取材をせずに、既に世に出た書籍、雑誌、ラジオ、テレビなどの発言を元にテレビに関する書籍を執筆してきました。
それはその距離感こそが〝テレビ〞だと思っていたからです。
だけど、今回は、そのスタイルを変え、当時、最前線で戦った多くの(元)日本テレ ビの社員の方々に取材しました。
単純に当時のことがあまり語られていないということが大きな理 由のひとつですが、それ以上に、今回焦点を当てたかったのが、テレビそのものではなく、それを裏で支えている人たちだったから。それを描くには、実際に生々しい証言を聞くしかない、と。

90年代半ば、フジテレビを逆転した時代の編成局長として日本テレビを指揮し、その後日本 テレビ社長にまで登りつめた萩原敏雄さんにも話を伺うことができました。
「超」がつく大物に緊張し ながらも、僕は単刀直入にフジテレビに勝てた要因は何かという質問をしました。
すると萩原さんは、「残念ながら……」と前置きして、本書で明かすある人物の名を挙げました。
「残念ながら……」
僕は、この一言に痺れた。
そして、これから書く本は、そういう本だ、という確信めいたものが生まれました。
つまり、この「残念ながら……」という一言には、“人間”が宿っていると思った。
愛憎、恩讐、葛藤……。
人間の思いが詰まっていた。
テレビは人間がつくっている。
その当 たり前の事実がくっきりと輪郭を持って迫ってきて震えた。
テレビ屋たちのそうした思いを描きたい、と。


第1部はこんなふうに始まります。

82年から12年にわたり三冠王
絶対王者に君臨したフジテレビ。
同じ頃、日本テレビは低迷。
3位が定位置だった。


「何が何でもトップを獲れ」


日本テレビ社長に就任した氏家齊一郎の大号令。
それに応えたのは“落ちこぼれ”だった
若きテレビ屋たちだった。


「逆襲」とは、敗れざりし者たちだけに許された特権である。


80年代末、「クイズプロジェクト」の名のもと集められた
小杉善信、渡辺弘、吉川圭三、
そして「1億円の新人」五味一男
「失敗したら札幌に飛ばすぞ」
「お前を採るのに1億円かかっているんだ」
容赦なく浴びせられるプレッシャーの中、
立ち上げたのは『クイズ世界はSHOWby ショーバイ!!』
だが、視聴率はまったく振るわなかった。
「人生全否定感がありましたね。
でも一回、そうやって強烈に否定されると、
脳がナチュラルハイみたいな状態になる」


そんな彼らの前にひとつの光明があらわれた――。

そして第2部に登場するのは、異端の2人と知られざる功労者。

「クイズプロジェクト」の成功で
「知的エンターテイメント路線」が確立。
万年3位から抜け出し、フジテレビの背中が
微かに見え始めた日本テレビ
だが、正攻法だけでは絶対王者フジテレビには届かない。


「オレは町外れの孤児院の院長みたいな感覚でした」


数々の番組で失敗を繰り返し、
ディレクター失格の烙印を押され
一時期、制作の現場を追われた土屋敏男
そして、土屋と同じ班で下積みをした菅賢治
この異端の2人が日本テレビのイメージを
劇的に変えていった。


その裏には、加藤光夫という
男の存在があった。
彼らを育て、日テレの風通しの良さを
つくった陰の功労者である。


「加藤光夫の三段重ね」


その知られざる功績とは何だったのか?

そして第3部以降、いよいよ決戦が始まる。

読売グループ、日本テレビ
奇妙に受け継がれる恩讐の“伝統”、
開局約40年の歴史が生んだ固定観念や絡み合う利権。
そんな“呪い”を断ち切るには
強烈なリーダーシップが必要だった。


社長に就任した氏家齊一郎が大号令を下す。


「お前らがやりたいこと明日から全部やれ」


彼の右腕・萩原敏雄に氏家は単刀直入に尋ねた。
「どうしたら日本テレビは視聴率でトップになれるか?」
「誰が何をやろうと、今のままでは絶対に取れません。
 徹底的な編成の構造改革が必要です」
「本当にこれをやれば勝つチャンスはあるのか?」
「チャンスはあります」
「よし、やろう!」


かつて「お前は日本テレビを潰す気か?」と一蹴された
萩原の大改革案を実行していく。
「山根でいいのか?」
「山根がいいんです」
異例の人事、改編率50%に迫る大改編……。
いよいよフジテレビの背中を捉える。
しかし、その目前、思わぬ“敵”が立ちはだかる。
それは皮肉にも、
「日テレ最大の武器」によるものだった――。

本書は、テレビの裏話のようなものが主題ではありません。
ひとつの一大プロジェクトに対し、名もなき者たちが組織の中で奮闘しながら巨大な壁に立ち向かい、乗り越えていく様を描いたものです。
それはテレビという世界に限らない、人間の物語です。
テレビのことに興味がない人でも、何らかの「仕事」をしている人には刺さる本だと思います!
よろしくお願いします!