芸人たちの最初の一歩

明石家さんまの場合

長きにわたりお笑い界のトップを走り続ける明石家さんま
彼にももちろん下積みの時代がある。
その時代のことを、笑福亭仁鶴をゲストに招いた「さんまのまんま」で語っていた。

(売れたのは)師匠(仁鶴)のおかげですよ。
師匠の(番組)「爆笑三段跳び」の前説で売れたようなもんですから。
師匠がなかなか入ってこない間、ずっと繋いでたんですよ。
なんば花月ですよ。
僕が19歳くらいのときに、師匠が劇場に入ってテレビ番組の収録をするまで、僕は前説で繋いでたんです。
(勉強)できましたねぇ。
だって、師匠が30分で入ってくるって言うのに、1時間半とかかかって(その間)つながなあかんかったんですよ。
毎週1時間以上前説でつないで、それでやることなくなって、漫談とか全部やりつくして、もうアカンわと思って、(当時巨人の小林繁の)形態模写やったです。受けない思って。やったら、大爆笑だったんです。
あれがきっかけで、テレビ局の人が見てらっしゃるじゃないですか。ほいで、形態模写をやってくれ、やってくれって言われて。19歳です。最初。
形態模写なんて誰もやってませんでしたから、あの時代。
ホントにあの前説のおかげですよ。

その後、この番組本編にも出演するようになり、チャンスをつかんで人気を得ていくことになる。

村上ショージの場合

そのさんまの今や相方ともいえる存在の村上ショージのデビュー当時はどんなものだったのか、「本番で〜す」で明かしていた。

きっかけっていうのは、僕は小学校5年生の時からホントに吉本入りたくて、中学校卒業してすぐにでも入りたかったんだけど、親父も体悪かったし、親父が死ぬまではするな、それが親孝行や、って言われて、で、中学校卒業して造船所でずっと溶接しながら頑張ってて、21歳のときに親父が亡くなったから、22歳の時、吉本に(入社した)。
(憧れの吉本に入って)嬉しくてね、(当時の)部長さんに「面接来い!」って言われて、僕緊張しまくって、なんば花月で「ところでお前、何できんねん?」
「はい……、溶接できます」「え! 溶接ぅ?」もうテンパってるから。
そんなら明日から裏方で来いや、言われて。
行って、ちょっと仕事、いきなりやけど、言われて、仕事1日目でいきなり。
で、事務所行ったら「客席の手すりが外れてるから溶接してくれ」言うて。
その次の日に、客席のぶらーと外れてる手すりにアース引いて、もう専門やからバチバチバチってやったら、吉本の支配人が「プロやなぁ〜」って。
それから何かあったら呼ばれてたわ。「おぅ、溶接してくれ」言うて(笑)。

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