太田光と伊集院光のお笑い観、その違い

先日発売された「クイック・ジャパン(84号)」では「いま、ラジオは。」と題された特集の中で、太田光伊集院光の対談が掲載されている。一般的に、二人はある意味で同士という感じで、非常に近い思想を持っているイメージがあると思う。が、この対談では、二人のラジオ観が「ラジオからテレビに」進出した伊集院と、「テレビからラジオにも」来た太田との微妙な違いが浮き彫りになっていた。
また、普段感じるイメージとは逆に、ひたすらナイーヴな伊集院と、それを通過した大人な太田という印象が面白かった。
そして、そのラジオ観同様、お笑い観もまた微妙に違いがあり興味深い。


太田は若い頃、タブーな方向に向かった理由を問われこう答えている。

やっぱり若い頃ってそういうとこ行きたがるとこあって。こっちにすりゃ殴りこみたいみたいな気分でテレビ出たりラジオ出たりするもんだから、笑えるか笑えないかっていうよりも、なんか事件起こしたほうがバッと注目集まるっていう、ある意味、無差別殺人みたいなもんで。(略)でもそれをやってコテンパンにされたりするんだけど、やってくうちに段々、じゃあヒヨったのか? みたいなことで自分の中で葛藤があるわけでしょ。だけど俺はあるとき、思ったんですよ。大衆が喜ぶもののほうがいいんだって。普通にみんなが観たり聴いたりして、じいさんばあさん子供から大人まで笑えるところに俺は行きたいって思ったんだよね。それは、自分がこう……どうなんだろうね。それが合ってるかどうかは別として、そこが信用できるかどうかでしょうね。

これは、普段からよく太田が語っていることだろう。太田は世間の一般的なイメージよりもはるかに「王道」主義だ。例えば、こちらでも紹介したとおり太田は「みうらじゅんのようなマニアックなネタでもゴールデンのド真ん中に持っていきたい」という思いを常に抱えている。そして、そういったことを着実に実現させていった。
しかし、伊集院は「俺はそこがちょっと違ってて」と言う。

俺なんか、マニアックな笑いを求める人も、そうでない大衆も、どっちも取りたいと思ってるかもしんない。例えば一番ベストは「太ってんのに早口だね」って笑ってる人がいたら、それがレベルが低いのかどうかは別だけど、わかりやすいじゃん。太ってる人があんなに早口で喋ってる、しかも喋るだけで汗だくだくにかいているっていうだけで笑っている人と、あの人の話は絵がものすごい浮かんでぞくぞくしちゃうんだよっていう人の両方とも取れたら、それが理想。

その境目が、ホントにこの数年で激変し10年前に平気で言えたことも言えなくなったり、逆にそれまでアンタッチャブルなものが笑いの対象にしてもいい、ようになってみんなの秤を探るのが難しい、と太田がその理想を実現させるのが難しいことを語る。それに同意した伊集院はこう補足する。

俺なんか両方に受けたいわけだから、もう合わせられるわけがなくて。けど、どのみちできないだろうっていう諦めもどっかにあって、楽なところもある。「わかる人だけわかってくれればいい」って言うといつも太田さんに「そんなんは違うんだ、芸能ってそういうもんじゃねえんだ」って怒られるけど。いやこれは、「こっちは全員にわかってほしいっていう究極の目標でやってるけど、結果的に『わかる人だけわかる』ようなことになっちゃうことを恐れない」っていうのを短い言葉で言ってるだけなんだけど。太田さんに怒られる、必ず(笑)。

こうしたある種の諦観を漂わせる伊集院光に対して、そこを強行にそこを突破してきた、しようとする太田光
その対比は面白い。