演出面から見る「オレたちひょうきん族」伝説


先日放送された「フジテレビの笑う50年〜めちゃ×2オボえてるッ!〜」では、数々の伝説的バラエティ番組を振り返った充実の番組だったが、そんな中でも「オレたちひょうきん族」の取り上げ方が印象に残った。
ただ名場面を流すだけではなく、例えば、鶴太郎の「おでん芸」がコント中に起きた軽いハプニングから生まれ、それをどんどん定番化し、進化させてったことを紹介している。すなわち、「面白いことは起きれば、それを繰り返して進化させていく」という演出方法に注目し、それがよく分かるように編集していたことだ。
そのことは当時、番組をディレクター(のちにプロデューサー)として作っていた三宅恵介も「本人vol.11」のインタビュー小説「バラエティ番組に捧げた人生を大いに語る!」の中で述懐している。

あと「ひょうきん」で教わったのは、俺らバラエティのディレクターは、笑いを作るのが仕事じゃねえなってこと。面白いことは作家と演者が考えればいい。ディレクターは、それをどう視聴者に伝えるか、面白いものが撮れたときにそれを次の週にどう伝えていくか、という流れを作るのが仕事なんだと思いました。
                   (略)
何か起きたときに、こちらとしては作家に「来週もこれを出そう」とお願いして台本を書いてもらうんです。
                   (略)
良かったのは、その場で面白がるだけじゃなくて、それを翌週に伝えるようにしたことで。
転がすんです。そこなんですよ。 (略) “面白いこと”をどう流れにもっていくか、そこからどう転がすかを常に考える。

このような手法で先述の「おでん芸」や「牛の吉田くん」「ホタテマン」などの名物キャラクターが生まれたのだという。
ひょうきん族」の面白さはこのようなダイナミズムにあるのだろう。


同じようにダイナミズムを感じさせる作り方を「クイック・ジャパン84」で三宅は、ディレクターだった荻野繁、作家だった高平哲郎との対談の中でも明かしている。

何がいちばん良かったって、『ひょうきん族』には、ディレクターやプロデューサーが全員揃う会議がなかったこと。普通、週一の番組だったら週一で会議がある。でも、僕らの場合は「ひょうきんベストテン」は荻野が作家と、「タケちゃんマン」は僕が作家とそれぞれに飲み屋かどっかで話をして、「それ面白いね!」という勢いのまま作っちゃう。もしも会議があったら、その面白さを他のディレクターやプロデューサーに説明しなきゃいけないけど、“面白さ”って説明すればするほどモチベーションが下がるんだよね。

同様のことを「笑芸人 (Vol.1(1999冬号))」のインタビューではより詳細に以下のように語っている。

特番がある時でも、作家が高田さんを含めて十何人、ディレクターは5人(略)。おれは「タケちゃんマン」を担当してたんだけど、作家が6人居て、6週に1本書いてもらう。作家と2人で打ち合わせをして、現場に行けばタレントさんとも話し合います。なぜ会議がなかったかと言うと、何か新しい企画をやろうとしたときに、会議で、これ、どこがおもしろいの?って聞かれて、これは、ここがおもしろくて、どうのこうの説明しているうちに、おもしろくなくなっちゃう。(略)会議をしないで、思いついたおかしそうなことを“とりあえず、やってみる”というスタンスで、ものを作れていた感じがします。思いつきと、実行力重視。それとタレントさんの、思いつきの部分を確実に拾う作業がわれわれの大事な仕事。それをどう料理するかという。
                   (略)
ふつうだとこうなって、こうしてって絵を狙う。でも、狙うと、見る側のプロの視聴者にバレちゃうんですよ。そういう意味では視聴者に嘘をつかないでどう裏切るということを考えていましたね。
                   (略)
狙ってないものが、当たっていく。視聴者と同じ気持ちっていうか、僕もある種の視聴者ですね。だから、絶対に(視聴者を)見下ろしてはいないし、僕の好きな笑いっていうのは、どこかこう、受けるかな?っていう、笑いの空気を捉えられるかどうかがポイントなんです。「あれ、おかしいから、もう一度やってみようと思うけど、ホントに受けるかな?」という感じでやる。と、こう、すなおにフゥーッと入ってくるという感じはしますね。だから『ひょうきん族』に限らず、僕が関わった他のお笑い番組でも、視聴者に「笑え」と強制するようなものは作らなかったですね。


そしてもう一つ「ひょうきん族」を面白くさせた側面として「激しい競争意識」が挙げられる。
当時、バラエティ番組では1週ごとに担当ディレクターを変えて回していくのが普通だった。しかし「ひょうきん族」では1時間の中で5人のディレクターがコーナーをもっていた。

(番組のバランスを考えず)それぞれが勝手に撮って、勝手に編集する。5人のディレクターのなかでは僕がチーフだったので、それを一時間の枠にまとめる役割があったので、よくケンカしましたよ。ぼくが「ひょうきんベストテン」を切っちゃうから(笑)。(「QJ」より)

良い意味でそういうところは厳しかった。だから、演者も編集で残してもらおうと思って必死になるわけです。たけしさんでもさんまさんでも、「これをやれば絶対にカットできないだろう」とか、そういう真剣勝負ですから。そこで、カメラマンも音声さんも、演者がそうやって必死にやっているのを撮り損ねちゃいけないと思うわけで、スタジオ内は緊張感ありましたね。でも、実際にスタジオで考えているのは、タケちゃんマンブラックデビルの対決で、撮る前にスタジオの隅で、たけしさん、さんまさん、俺の三人が、今回はナスの被り物がいいのか、ピーマンがいいのか、いやニンジンのほうがいいじゃねえか、みたいなくだらないことを一生懸命考えてたのが、今思うと素晴らしいなと(笑)。(「本人」より)


そして、演者と作家との間にも激しい競争原理が働いていた。

やっぱり撮っている時に面白くないと編集では絶対に面白くはできないです。そのために必要なのはやっぱり演者の力。「ひょうきん」は、作家の書いた台本に演者がスタジオで足していって、1+1+1が4にも5にもなった番組でしたね。あのね、ここだけの話、台本で面白いものは腕のある芸人さんはやらないんですよ。悔しいから。
                (略)
台本で面白いものは、ただの面白い台本。台本で面白いものをそのままやって面白くなったとしても、それは自分たちの力にならない。その台本を出発点にして自分なりにどう変えるか、そこが芸人さんたちの勝負なんです。だから、腕のある人たちとは台本を一緒に作っていく。演者・作家・演出家が三位一体となる。(「本人」より)


そして、このようなダイナミズムあふれる現場の中でも、守っていたのがある種の「品」なのだと、三宅は言う。

そこの品は、割と大事なんですよ。だから、もちろん「ウケればなんでもいい」「面白くなければテレビじゃない」でいいんだけど、その中にも最低限のルールがあって、みんなそういう人たちの間ではルールを共有していたんだけど。たとえば「ひょうきん」でも、たけしさんとか鶴ちゃんがお尻を出すのはいいんだけど、さんまさんは絶対に出さないんですよ。それはさんまさんのキャラじゃないから。「任じゃない」ってよく言ってたんだけど、さんまさんがお尻を出すとまた違う伝わり方になってしまう。「ひょうきん」をやっていた頃、たけしさんがお尻を出したりしていたから、同じことをすればウケるだろうと思って、若いやつがマネしていたんだけど、全然違うんだって。たけしさんがいろんな流れの末にお尻を出すから面白いのであって、その「お尻を出す」という現象だけを模倣する、そういう現象だけの笑いが今は多いですね。それまでのたけしさんのキャリアという長いフリがあるから面白いのに、今はフリがない。オチだけで笑わそうとする。
                 (略)
他の人がやっても面白いんだけど、たけしさんがやる意味はそこなんだよね。だからそこを分かってる人と、分かってない人がいて、それは作り手として大事な差。これをやりゃいいじゃん、これやったらウケるよ、じゃないんだよな。誰がやるか、どういう流れでやるか、が大事なんだな。(「本人」より)

笑芸人 (Vol.1(1999冬号)) (白夜ムック (No.51))
高田 文夫
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