キャイ〜ンの過剰な愛情
こちらでも一度紹介したとおり、キャイ〜ンはこの度『天野く〜ん!』(ウド鈴木:著)、『な〜に、ウドちゃん?』(天野ひろゆき:著)というコンビ新書を上梓した。
これはコンビそれぞれが同じテーマについて、2つの視点から執筆することで、結果、帯に書かれたとおり「食い違う記憶、交錯する事実関係、立体的に浮かび上がるエピソード。事実はただふたつ。」ということになる。
キャイ〜ン、その愛
キャイ〜ンといえば『アメトーーク』での「愛方大好き芸人」などでウドちゃんの天野くんに対する溺愛っぷりが有名だ。
などと本書『天野く〜ん!』でもウドの天野に対する愛で溢れている。
ウドは天野の魅力を数々書き連ね、その極めつけにこう書き記している。
天野くんは、まず自分かわいさでモノを考えるってことはないんです。自分のことを考えるのは常に2番目3番目なんですよ。そういう優しさにあふれているんです。
一方の天野にとってウドは尊敬と嫉妬の対象だった。
「相方への尊敬とやり場のない嫉妬心」に悩む天野。それは決して「自分かわいさでモノを考えるってことはない」「自分のことを考えるのは常に2番目3番」などキレイなものではない芸人としてのプライドが交差している。
しかし、そこにも隠し切れないウドへの愛情が文章からにじみ出ている。
それは天野らしくウドに対する冷静な批評に表れている。
ウド鈴木最大の魅力は、見るからにバカそうだということ。お笑いコンビのボケとして、これほど超一級品の素材である資質もありません。原宿を歩いていて「君、かわいいね!」と芸能界にスカウトされるモデルや女優さんがいますが、ウドちゃんは、この業界で初めて「君、バカでしょ!」と、路上でスカウトされうる逸材だと思うのです。
たとえば、フィギュアスケートの浅田真央。たとえば、プロゴルファーの石川遼。彼らに共通する資質は、国民的な存在だということ。スポーツとバラエティとで、その世界はまったく違うにせよ、ウドちゃんもまた、国民的な存在だと思うのです。つまり、国民的バカ。(略)つまり、国民みんなに愛されるバカ。
すべてが王道に向かっていく、ウド鈴木の不思議なフィルター。
下ネタをやっても嫌らしくならない。
難しい話もなぜかバカっぽく聞こえてしまう。
もちろん、コンビ揃って王道好きだからという大前提があるにせよ、たとえマニアックなネタをやったとしてもそうはならないし、なれないのです。本当に、ウドちゃんという男は、不思議なフィルターを持った存在です。
ウドの強烈な個性に対して最大限の賛辞を送りつつ、デビュー当時はそれに対し「自分の存在意義がゼロになってしまいそう」で恐れを抱いていた天野。
矢島マネージャーが注いだ愛
天野のそんな苦悩を支えてくれたのは矢島というキャイ〜ン結成当時からついていたマネージャーだった。
天野は矢島を「とにかく、目線を下げてくれて、僕らと一緒に上を目指してくれた」「現場が大好きな人」と言う。彼が天野の心情を察し、常に「お前は、なにがやりたい?」と優しく声をかけていたのだ。
実は、テレビに出始めた頃、矢島さんは僕にラジオの仕事を取ってきてくれました。それは、コンビとしてではなくピンの仕事でした。
「月曜日から金曜日の帯というのがいいと思うんだ。もしかしたら、この仕事をやることでキャイ〜ンとしての仕事には支障が出るかもしれない。取れていたはずのテレビの仕事が、このラジオの仕事が、このラジオのスケジュールのためにNGを出ざるをえないのかもしれない。それでも俺は、この仕事はやったほうがいいと思う。いつかきっと、キャイ〜ンの糧になるはずだから」
このラジオ番組『MEGAうま!ラジオバーガー』は実際に天野の、キャイ〜ンの大きな糧*1になっている。
(矢島さんは)キャイ〜ンというコンビのバランスを考えた時に、ツッコミとしての僕に欠けていることや、伸ばさないといけない部分を見抜いていたのだと思います。だからこそ、珍しく強い口調で、僕にラジオの仕事を受けるように進言してくれたのでしょう。
しかし、そんな矢島マネージャーは若くして病床に倒れてしまう*2。
スタッフら現場の中でも人望のあつかった矢島。そんな彼を慕うスタッフたちは天野へ口々に彼の裏話を告げる。
「実はさ、ずいぶん前の仕事で、こちらとしてはウドちゃんだけにオファーしたものがけっこうあったんだよね。でも、矢島さんは、『うちはバラ売りはしません』って頑なに拒否されて。『なんでもさせますから、ぜひキャイ〜ンとしてお願いします』と頭を何度も下げてくれてね」
ウドを決してバラ売りしようとしなかった矢島。
しかし、『MEGAうま!ラジオバーガー』だけは天野のピンでのバラ売りを認めた。
もちろん最終的にそれを了承したのは天野が言うように「キャイ〜ンの足りない部分を伸ばそう」という目的があっただろう。
しかし、天野も知らないエピソードがウドの口から語られている。
オファーはキャイ〜ンにではなく、天野に来たものであった。
しかし、矢島は「ウド、お前も出ろ」と言ったのだという。
「でも、矢島さん、これは天野くんのチャンスなんです。昔からラジオをやりたいって言ってたし、ましてや三宅さんや伊集院さんがやっていた伝説の枠じゃないですか。天野くんが評価されて夢の枠をいただいたんですから、ボクが出ることはできませんよ」
「いや、二人でキャイ〜ンなんだから、どういう形でも出なきゃダメだ」
「ボクは出ないですよ。これは天野くんが一人で挑戦する番組です。それに天野くんが一人でがんばることで、絶対にこれからのキャイ〜ンのためにもなるんですよ」
「ダメだ。キャイ〜ンは二人でキャイ〜ンなんだ」
……って。全然譲らないんですよ。お互いに。
結局、ウドが頑なに拒否したために天野一人のラジオになったのだった。
キャイ〜ンの周りは頑な愛に溢れている。
キャイ〜ンの過去・現在・未来
ウドは最終章で過去を振り返りつつ現在を見つめこんな名文を寄せている。
いつも思うのは、ある瞬間にあることを選択した時点で、もう一方を選択していないんだってことです。
仕事として芸人を選択したことで、僕は農業を経験していない。お笑いをやりたいがために、実家の仕事である農業をしていないんですね。
何かを選択する=何かを経験するということは、常に何かを経験していないことだと思うわけです。
選択肢の両方を同時に選べないのが、人生においての永遠の、いかんともしがたい事柄で、もう一方を選んだらどうなったんだろうと想像はできるんですけど、実際に両方を経験することはできないという……いや、経験していないわけじゃないんですよ。経験しない経験をしているんです。
(略)
何かを選択するという経験をすることは、別の何かを選択するという経験をしないことですし。また別の見方をすれば、たくさんのことを経験したということは、たくさんのことを経験しないという経験をしていないわけですよ。
(略)
たくさん経験することなんて、べつに何もエラくない。たくさん経験することもたくさん経験しないことも、人生のポイントで選択を積み重ねた結果にすぎないんだと思うんです。
(略)
だからこそ、いまこの瞬間は必然なのかもしれないなって感じるのでしょうか。
天野とウドがコンビを組んだのはやはり必然なのだ。
そして天野は未来をみすえる。
そんなウドちゃんが、もしも僕よりも早く死んでしまったのなら……。
<本当に死んじゃったよ!>
僕は心の中でそうツッコんだあとで、笑ってしまうと思うのです。
そしてしばらくその顔をながめるでしょう。
噛みしめるでしょう。日本一のバカ面を。
そのあとで、ようやくこんなことを思うような気がするのです。
<果たして俺は、ウドちゃんのことを、どこまで理解できていたのだろうか?>
*1:天野のこの番組に対する思い入れは強い。最終回では号泣し今だにその号泣っぷりが『ナインティナインのオールナイトニッポン』でネタになっているほどだ。
*2:しばらくの療養の果て死去。享年48歳。天野は「あれ以上の悲しみはないよ。だから、人をうらんだり怒ったりすることはなくなった。あれに比べれば、すべてが自分の中で耐えられる」と言い、ウドは「矢島さんは、我々の原点であり、誇りであり、希望なのです」と書いている。