メルマ旬報「芸人ミステリーズ」再録 『いいライン上のさまぁ~ず』

4月3日に発売される『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』は、繰り返しになりますが「水道橋博士のメルマ旬報」に連載している「芸人ミステリーズ」の傑作選です。

書き下ろしの「猿岩石」「有吉弘行」篇に加えて、連載から加筆修正した7篇(オードリー、オリエンタルラジオダウンタウンナインティナイン爆笑問題ダイノジマツコ・デラックス)が収録されていますが、書き下ろしが長くなったことでページの都合で断念しましたが当初は、他にも収録する予定でした。
その中から「さまぁ~ず」をテーマに書いた回をブログ用に改変して再録します。

芸人ミステリーズ14『いいライン上のさまぁ~ず』

みんな、さまぁ~ずになりたいと思っている

クイック・ジャパン85バナナマン設楽統を始めとして、今の中堅~若手芸人たちの多くがそう口を揃える。
芸歴で言えば、とんねるずダウンタウンウッチャンナンチャンら、いわゆる第3世代と、ナインティナインあたりとの中間。『アメトーーク!』の人気企画「芸人の新ルールを考えよう」では、「楽屋挨拶へ行かなくてもいい」のは「さまぁ~ず以下」などと度々、基準のラインとして使われたりもしている。
深夜番組では好き勝手に様々なタイプの番組を作り、ゴールデンタイムの番組では力を抜いてユルく進行(もちろん、そう見えるだけで実際にはそうではない)、単独ライブは毎回大盛況。
今、若手芸人が目指すべき「いいライン」上にさまぁ~ずがいるのは間違いがない。
しかし三村は「まだまだ脇役中の脇役ですよ、テレビ史、お笑い史で言えば」(注1)と語る。自分たちは「お笑い年表」に載りたいのだと。まだそのラインには達していないと言うのだ。

三村「俺たちぐらいにならなれるよ、でもこっから先が大変だよ」(注1)

アホっぽいパブリックイメージとは裏腹に三村のお笑いに対する熱量の高さはお笑いファンには有名だ。大竹も言う。

大竹「三村はものすごいお笑いに厳しいんです。何も出来ない何も考えてないただ楽しむだけの人に見えるかもしれませんが(笑)」(注1)


二人の出会いは高校時代に遡る。

三村「高校時代の大竹はやっぱ、言葉を作るのはホントおもしろいなって。言葉の作り方とかしゃべりかたとかが、しばらく勝てないヤツ出てきたかな、初めて」(注2)

と三村はその衝撃を述懐する。大竹の言葉のニュアンスが自分のツボにハマったのだ。対して大竹にとっても三村は衝撃だった。

大竹「このタイプ見たことないですよね。いまだに。周りの人はみんな言いますよね、天才的だって」(注2)

仲良くなったのは高2の時の化学の実験の授業がきっかけだった。
そこで同じ班になった二人。三村は暇を持て余してプラスとマイナスのワニ口クリップをつなげて遊んでいた。
すると大竹がこれ以上電圧を上げてはいけないというラインを越えてつまみをひねるとその機械が爆発した。

大竹「俺がコイツを爆発させたときに発した『オイッ!』っていう、それを見たとき以来ですから。コイツに仕掛けて、小手先じゃなく出た魂の叫び。その瞬間からずっと変わってません」(注2)

当時から二人はお笑いが好きで他のクラスメイトがしないようなマニアックなお笑いの話で盛り上がっていたという。
お笑いの道に進んだのは友だちの誘いだった。まだお笑いの部署がなかったホリプロにスカウトされた友人が一人で行くのが心細くて二人を誘ったのだ。やがてその友人は「方向性の違い」で抜け、三村と大竹の二人となりバカルディが結成された。


バカルディは最初から凄かった。

「俺、全勝したもん。だって事務所ライブクラスだったらウケないと。3連勝したらもう味方がつくから。4、5連勝したら自分らのファンだけになる。そうすると自動的に負けなくなる」(『バナナムーン』2010年10月22日)

と三村が振り返るようにすぐにライブでスベり知らずの存在になり注目を浴びた。
オーディション番組やネタ見せ番組で勝ち続け、瞬く間にレギュラー番組をつかむ。
そして93年、結成からわずか5年足らずでフジテレビ22時台にホンジャマカとの冠番組『大石恵三』がスタートする。
しかし『電波少年』(日テレ)などの強力な裏番組があったことから視聴率で苦戦。
なにより「完全な力不足」(大竹/注3)だった。

三村「いざやってみると、あれ、あんま面白くねえなと。『夢で逢えたら』に全然勝てねえなって思っちゃったんですよ。それは何でかっていうと、人から与えられたものを面白く演じないと、テレビって駄目なんだろうなって勝手に決めつけちゃってたから。言葉は悪いけど『やらされてる』みたいになっていた」(注3)

そんな状態だったから終わるのも早かった。わずか半年で番組は終了した。

三村「そんな重要なことともなんとも思っていなかったんです。番組終わった時も、笑顔で打ち上げに出てましたから」(注3)


しかし、この終了を機に次々とレギュラー番組が終了。
冬の時代が始まる。

大竹「仕事の話はいっぱいあったんですよ。でも、来た仕事何もやんなかったんですよ。会社に行くと『おっ、王様来たよ』って、『ゴールデンタイムのドラマ蹴ったよこいつ』って言われながら、『お笑いしかしたくねぇ』ってちょっと尖ってたんですよね、仕事ないくせに(笑)」(注3)

大竹は「お笑い芸人」としての自分を確立するために、お笑い以外の仕事をしない、という道を選んだ。
一方で三村は「一人でどうにかする力をもうちょい身につけたかったんです。当時から大竹はいろんな人にすぐOKもらえたんですけど、俺は何やってもダメ出しの連続で。だから、腕を磨きたかったっていうか、修行期間じゃないですけど、いっぱいテレビの仕事したかった」(注3)と、大阪の局などでピンでレポーターの仕事などをこなしていた。

三村「やっていくうちに、実際に力がついてきたというよりか、どうにかなる精神が生まれ出してきたんです」(注3)

しかし、大竹にはそういった仕事はやらせなかった。

三村「コンビの笑いの部分を担ってるやつが、顔も映んないようなレポーターの仕事とかラーメン食っておいしいですねとかやってたら、コンビとして終わるから」(注3)

そのラインだけは譲れなかった。
なかなかテレビに出れない時期でもライブは盛況だった。
だから「自分達の笑いに対しては自信はあった」(注3)と大竹は振り返る。


バカルディは妙なところから火がつき始める。
「~かよ!」という三村のツッコミがナインティナインウッチャンナンチャンらから面白がられたのだ。
ナイナイの『オールナイトニッポン』で何度もネタにされ「関東一のツッコミ」などと呼ばれるようになった。そして97年『めちゃイケ』(フジ)の「笑わず嫌い王決定戦」に出演したことがきっかけとなり、本格的にテレビで復活した。
そんな折、コンビとして軌道に乗り始めた頃、『気分は上々』(TBS)でのくりぃむしちゅー(当時:海砂利水魚)との対決企画で「さまぁ~ず」に改名させられてしまう。

大竹「俺たちはすごく嫌だったんですよ。当時だいぶいい時だったんですよ? 仕事も入ってきてて、先までスケジュール決まってて、ここ数年で一番調子いい時なのに、ここで名前変えてどうすんだよ、みたいな」(注3)

しかし、皮肉にもそれが奏功する。

大竹「俺らは他の番組の罰ゲームを引きずって、遊びで名前変えてふざけてるって思われたくないから、出る番組はものすごい頑張ったんです。改名で注目されたのと、そこで頑張ったことの相乗効果」(注3)

その結果、ついに再ブレイクを果たす。
変わったのはコンビ名だけではない。
かつてトークにおいてツッコミ役を任された時、「なんで俺だけしっかりしなきゃいけないんだよ!」「お笑いなのにどうしてマジメにやらなきゃいけないんだよ!」と泣きながら抗議したという三村。
元々はそういうボケとツッコミがはっきりしたコンビだった。
しかし『内村プロデュース』がきっかけとなってそれが大きく変わった。

三村「内村さんに対してどっちもボケる、ボケの争いでしたからね。大竹ともライバルで、番組の中で誰が一番面白いかってだけの話だったから、あれを5年間ぐらいやったおかげでだいぶ意識も変わりました」(注3)


そういった劇的な変化があったさまぁ~ずだが変わらない部分も多い。
特にその核心部分は一切ブレることはない。
たとえばテレビの第一線で活躍している今でもライブに対するこだわりを捨てることはない。

三村「目の前の人たちとの“笑いのズレ”がいちばん怖いじゃない? そのズレを修正するためにライブがあったりもする。たとえばスタジオでスタッフを相手にコントやってて、いざ客前に出たら自分があまり面白くなかったって気付かされるって、それイヤじゃん。だから常にお客さんと接していたいからライブをやる」(『バナナムーン(同前)』)

狙ったとおりの笑いが起きないのは自分たちに問題がある、と彼らは言う。

大竹「お客さんに対して『理解しろ』『笑え』じゃなくて『これ面白いよ』って気持ちでやってるんで。面白さをどうすればわかってもらえるかをいつも考えますね」(注4)


そしていつまでたっても仲が良い。

大竹「一時期、コンビは喧嘩するほうがカッコイイみたいな風潮がありましたよね。プライベートで喋らないようにして、本番まで溜め込まないと爆発しないとか。でもそれって俺には考えられない。大げさな話かもしれないけど、若いときなんて自分たちの共通のライバルが外にいるのに、コンビが力合わせないでどうするんだ?って思いますね」(注4)


さまぁ~ずのテレビタレントとしてのイメージと特徴がもっとも色濃く出ているのが『モヤモヤさま~ず』(テレビ東京)だろう。
この番組で長くパートナーを務めた大江麻理子アナウンサーは彼らについてこう評している。

大江「さまぁ~ずさんは街の方に出会うとまず、かなりの緊張感を持って相手の『ここまでは大丈夫』という領域を探っていらっしゃるのではないかと思います。その『大丈夫ライン』を瞬時に探り当ててしまわれるので、番組の根底には安定した安心感がある気がします」(注3)

それについて三村は「俺ね、小さい頃おじさんに、ぎりぎり(のラインを)超えて異常に怒られたことあるの。めちゃくちゃキレられたことある。そっから人のぎりぎりを探る人生になったんだよね。これトラウマ」(注5)と語っている。
そのぎりぎりのラインを探ることこそがさまぁ~ずがさまぁ~ずたる所以ではないか。
探るのは「怒りのスイッチ」だけではない。

三村「あまりストイックにいくと、ほんとに仕事なくなるから。遊びがありながら、実は心のなかで少し計算してるみたいな」(三村/『バナナムーン(同前)』)

と、仕事におけるストイックさと遊びのぎりぎりのラインも絶妙だ。

三村「おもしろいことを言える番組とそうじゃない番組ってあるじゃない? おもしろい番組でわりとメインというか、イイ感じで出てるだけの給料を今は計算したほうがいいと思う。それが実際の給料だから。あとはね、バイト。もしくはボーナス。ここまで来たボーナス」(同前)

と、お笑い芸人として大事にすべきこと、やるべきこと、やりたいこと、やりたくないことのラインも自覚的だ。ユルさと熱さのいいラインを巧妙に行き来している。

天下取り 無理だと気づき 7,8年

と『気分は上々』で川柳を歌って10年余り。
天下を取った一組に数えられるコンビになった。
さまぁ~ずは自分たちにとってのいいラインを探り続けながら、そのラインをゆるゆると歩き続けている。

大竹「僕はとにかく“笑い”ですかね。“笑い”をやれるような番組をやっていたいです。形は何でもいいんです。お笑い番組を1つ2つはやっていたいというか。常に探してます。『お笑い番組ないかなー』って。まだまだ完全にやれてるとは思ってないんです。ライブとはまた違うんですよね、テレビは。行って笑って帰りたいというか。お笑い番組をやれてたらいい」(お笑いナタリー)

三村「コンビとしての可能性というかね、今でもまだ、もうちょっと面白くなるんじゃないかって気がしてるんですよ」(注3)

みんな、さまぁ~ずになりたいと思っている。
けれどさまぁ~ずは今でももっといいラインを探り続けているのだ。


※引用文献
注1 『Quick Japan Vol.106
注2 『TV Bros.』(2010年1月9日号)』
注3 『Quick Japan Vol.74
注4 『Quick Japan Vol.85
注5 『Quick Japan Vol.80