運命を変えたスキー旅行

9月20日発売の『芸能界誕生』(新潮新書)を書くにあたって、膨大な資料を集めて読んだのですが、そんな中から特に面白かった、変わったものを紹介していこうと思います。

まず今回は、雑誌『ミュージック・ライフ』の記事。「第1回日劇エスタン・カーニバル」は、ある運命のあやがあり、その後の勢力図が大きく変わることになります。
この「第1回」を経て山下敬二郎(ウエスタン・キャラバン)、ミッキー・カーチス(クレイジー・ウエスト)、平尾昌晃(オールスターズ・ワゴン)が「ロカビリー三人男」として大人気になっていくわけですが、「第1回」の前までは寺本圭一擁する堀威夫田邊昭知らが在籍していた「スイング・ウエスト」のほうが格上で人気がありました。
にもかかわらず、他の3バンドの歌手に人気が集中してしまったのには理由がありました。それは、直前にメンバー数人が怪我をして万全な状態ではなかったからです。
それは堀威夫氏の著書などでも少し書かれていますが、大一番を前にメンバーの英気を養うため、スキー場へ慰安旅行に行ったためでした。そこでメンバー数名が怪我をし、「ウエスタン・カーニバル」で求められていたロック系のボーカル担当・清野太郎が欠場、もうひとりのボーカル・大野義夫も車椅子でのステージを余儀なくされてしまいました。結果、「ロカビリー三人男」に遅れをとってしまうのです。

『ミュージック・ライフ』1958年4月号

そんな運命を変えた慰安旅行の模様を詳細に綴った手記を堀威夫が『ミュージック・ライフ』1958年4月号に寄せているのです。
ちなみに寺本圭一がイラストを描いています。

今日は待ちに待った、スキー旅行の日です。九時、上野駅集合。普段ルーズな人達もこの日ばかりは約束の時間にピタリと集まるという」

こうして始まった手記は、全員のファッションまで詳細に書かれています。

「先ず歌手の寺本君、ナイロン製の上下黒のアノラックとスラックス、それに白の帽子、さすがお洒落の彼故、そのスマートさは群を抜いております。続いて昭坊こと、ドラムの田辺君、グリーンのコートにグリーンのスキー帽、スティールの大森君はレンガ色のジャケットに粋なスカーフを首に巻き、ベースの植野君は、紺の上下、歌手の清野君はグレーのズボンにチェックの上衣、同じく歌手の大野君が赤のアノラックに、赤のスキー靴ETC」

ど派手で華のある集団は、ゲレンデに到着する前にすぐに若い女性や子供たちに囲まれてしまったそうです。
スキー経験者は寺本圭一ひとり。「一度も滑らないうちから、大森君などは体中、雪だらけという有様」と楽しげに綴られます。

「上ではもう張り切って居る連中ばかり、自分の滑れなかった事も忘れて、我先にと滑り始めたからたまらない。下では寺本君を真中に囲んだファンの一群、お腹の皮をヨデッて笑い転げていました。
(略)
また昭坊はどう間違ったか、一番下迄転ばずに滑ってきましたが、止めることを知らない悲しさ、女の子達の真只中でドスンとばかり大きな尻餅をつきました」

若き日の田邊昭知が瑞々しく描写されています。
そのスキーの腕を経験者の寺本に褒められ得意げになった田邊は、もう一度登り、滑ってきました。

「得意そうに又滑って来ました。途中で待ち構えて居た我々悪童達、“アッ!昭坊、大きな穴があるぞ”と驚かしたからたまらない。ダイビングの様なスタイルで大きく転倒しました」

結果、田邊は到着後わずか30分足らずで、左足首ねんざで滑れなくなってしまうのです。その後、大野が「左のズボンが少し破れて居り、そこから血が吹き出し」「骨迄切れている重症」を負い、当時バンドボーイだった守屋浩もねんざ。初日で10人中3人が怪我をする事態に陥ったのです。

2日目はさすがに慎重になった面々。スキーにも慣れ、初日のようなことはなく、帰り時間が迫ってきました。

「清野君“最後に一回滑ってくるからな”とリフトにつかまり勇躍頂上に着き、大きく我々に合図をして勢良くスタートしました。見事な上達振りと皆で感心していいた矢先、途中で見事に一回転、“やったな”と思って見ていた所、むくむくと起上がって彼、両手で✕印を作りました」

診断の結果は「全治1ヶ月の骨折」。これにより清野の欠場が決まってしまうのです。

これぞ青春の瞬き。
そんな運命を変えたスキー旅行の様子をユーモアあふれる軽やかな筆致で綴る堀威夫の筆力も素晴らしい。とても味わい深い記事でした。

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