大学お笑いサークルと大学クイズサークル

本日放送の『100カメ』(NHK)で今回密着されるのは、部員数300人を抱える早稲田大学のお笑いサークル「お笑い工房LUDO」。ひょっこりはんハナコ・岡部、Gパンパンダ、にゃんこスターアンゴラ村長、ラパルフェなど数多くのプロの芸人を輩出している名門サークルです。

『100カメ』公式HPより

大学お笑いサークル前史~草創期

そんな大学の、いわゆる「お笑いサークル」が生まれたのは、90年代後半ではないかといわれています(『お笑い実力刃』の「大学お笑い」特集でも96年頃と解説されていました)。
それまで「お笑い」のサークルといえば、「落語研究会」など古典芸能をベースにしたサークルがほとんどだったようです(あるいは90年代前半に登場した「ジョビジョバ」のように演劇サークルから派生したもの)。
そんな中で多摩美術大学小林賢太郎が、活動停止していた落語研究会を「オチケン」として復活させたのが1992年頃。そこで片桐仁ラーメンズを結成します。
それから程なくして、大学生のお笑いにいち早く注目した田辺エージェンシーによって「冗談リーグ」などが開催され、ラーメンズエレキコミックがプロデビューしていきます(田辺エージェンシーから独立し設立されたトゥインクル・コーポレーション所属に)。
このあたりまでが、「お笑いサークル」“前史”といえるでしょう。

2021年8月開催イベント「大学お笑いサークル36歳同窓会」で作成した年表

90年代半ば、早稲田大学に「WAGE」が誕生します。さらに「WAGE」に馴染めなかった人たちを中心に、いまや老舗となった「お笑い工房LUDO」が設立されます(僕は便宜上、古典芸能ベースのお笑い系サークルを、その名称から「縦文字系」、近年生まれた最初から漫才・コントをするためのお笑いサークルを「横文字系」と勝手に呼んでいます)。
そうした中で、アミューズ主催の「ギャグ大学」がスタートし、「WAGE」(かもめんたる、小島よしおら)がプロデビュー。
にわかに盛り上がりを見せ始めると、2000年代に入ると次々と各大学に“横文字系”お笑いサークルが設立されていきます。
これは、WAGEらのプロデビューの影響もあるとは思いますが、おそらく最大の要因は『M-1グランプリ』が始まったことでしょう。
「お笑いブーム」も到来していたこの頃、学生芸人は『M-1』に出場することが最大の目標だったようです。1回戦を突破すれば、大きなステータスになりました。

西の旋風

そうして次第にお笑いサークルの土壌が固まってきた2010年代、「お笑いサークル連盟」が発足します。そして連盟主催の大会「大学芸会(国民的大学生芸人グランプリ)」がもっとも権威のある大会(その後、団体戦の「NOROSHI」もスタートし、2大タイトルに)となっていきます。
ただし当初は、基本的に関東の大学中心で行われていたようです。
関西のお笑いサークルは、「個々の大学で活動しているイメージで、大きな大会に出てきてなかった」と、自身もお笑いサークル出身のふたつぎさんは証言しています。そもそも「東西の交流」はあまりなかったと(ただし2000年代前半に早稲田大放送研主催の「大学生M-1」で大阪芸大のミルクボーイが優勝しているので例外はあると思います)。
そんな中で、その状況を破ったのが同志社大学の「喜劇研究会」でした。1962年に創設され、ここでカズレーザー東ブクロがコンビを組んでいたことでも有名な老舗サークルです。「喜劇研」は早稲田大のやはり老舗サークル「寄席演芸研究会」(1960年創設。山田邦子オアシズらを輩出)とは定期的に交流をしていたそうですが、「大学芸会」や「NOROSHI」には当初出場していませんでした。
しかし、2010年代半ばから状況が変わったとふたつぎさんは証言しています。

ふたつぎ「4年くらい前から「喜劇研」が『NOROSHI』に出場し始めました。
全部のコンビがめちゃくちゃウケて、関東の人たちはまったく知らない状態だったので、荒れに荒れたんです。
各サークルから複数のチームがエントリーして、そのうち1チームでも決勝に上がればいいみたいな感じなんですけど、「喜劇研」は数組しかエントリーしてないのに、そのほとんどが上がっちゃう、みたいな」
Quick Japan Web「早稲田はよしもと、明治は人力舎…? お笑いブームの最先端、“大学お笑いサークル”の魅力を聞く」2020年8月27日)

「西」のサークルが旋風を起こしたのです。

大学クイズサークル草創期

実はこうした流れは、クイズサークル草創期に酷似しています。

大学のクイズサークルは、80年頃から各所で相次いで発足さました。
一般的に最古といわれているのは、のちにフジテレビに入社し『FNS1億2000万人のクイズ王決定戦』の総合演出となる森英昭らが80年に設立した中央大学クイズ研といわれていますが、それ以前にもあったという資料もあり定かではありません。
いずれにせよ、80年以降、増えていったのは間違いありません。
それに大きな影響を与えたのが、流行していた視聴者参加型のクイズ番組で、特に77年から始まった『アメリカ横断ウルトラクイズ』の存在でした。『M-1』に出ることが目標だったお笑いサークル同様、『ウルトラクイズ』に出ることを目標にした若者たちが集結していったのです。
やがて各地にある大学クイズサークルを統括する「学生クイズ連盟」が発足します。その連盟主催で始まったのが「マン・オブ・ザ・イヤー」という名の学生クイズ王を決める大会でした。
お笑いの「大学芸会」がそうであったように、「マン・オブ・ザ・イヤー」(通称「マンオブ」)も当初は関東の大学に限られていました(ちなみにお笑いもクイズも関東をリードしていたのは早稲田大でした)。
それを知って憤ったのが、立命館大学のクイズサークル「RUQS」に所属していた長戸勇人でした。

「なんやねん! おかしいやろ!」
長戸勇人は憤慨した。関東で「“学生クイズ日本一”を決める」と銘打った大会が行われていること、つまり「マンオブ」の存在を知ったのだ。
「オレら関西勢なしで、何が日本一やねん!」
元々は関東のクイズ研の交流の場といった位置づけの大会だったが、この存在を知った長戸ら立命館大学「RUQS」が86年より参戦を表明。関西勢にも門戸が開かれた。これにより、関東学生クイズ連盟も日本学生クイズ連盟となり、名実ともに「学生クイズ王決定戦」と呼べる大会になったのだ。
86年12月。底冷えする真夜中の大垣駅に、稲川良夫、佐原恵一、瀬間康仁、鎌田弘、紀伊照幸、そして長戸らRUQSの精鋭たちが「青春18きっぷ」を手に集まっていた。
彼らは大垣から東京を結ぶ「大垣夜行」の先頭車両に乗り込んだ。
遂に関東の連中と雌雄を決する時が来た。絶対に負けたくない。列車に揺れながら、高揚感でいっぱいだった。
「クイズをしに行く」。そのたったひとつの目的のために、鈍行で約6時間近くの長旅だ。
列車は、名古屋駅で停車した。
扉が開くと2人の男が入ってきた。
「おお、こっちこっち」
稲川が2人を手招きする。
「紹介するよ」
紹介されるまでもなかった。あいつらが噂のヤツらか。長戸はのちにライバルとなる2人の様子を品定めするかのように見つめていた。
名古屋大学クイズ研究会の秋利美紀雄と仲野隆也だ」
(『史上最大の木曜日』より)

果たして、立命館と名古屋大勢は、関東勢を圧倒。名古屋大の仲野が優勝した他、上位を席巻してしまいました。
お笑いでの同志社大同様に、まさに「西の旋風」を巻き起こしたのです。

『東大王』ブームの原点

お笑いサークルも創成期は「大学生のお笑いなんて」などと小馬鹿にされていたと聞きます。クイズサークルもそうでした。「クイズを真剣にやるなんてバカげている」などと言われていました。
けれどいまや、大学お笑いは、数多くの賞レース王者を輩出し、ひとつの大きな潮流となりました。
クイズサークルも同じです。
ここから数多くの「クイズ王」や「クイズ作家」を輩出し続け、近年の『東大王』ブームや「QuizKnock」活躍の土台となっているのです。
『東大王』で活躍した伊沢拓司、水上颯、鈴木光らはみんな東京大学のクイズサークル「TQC」出身。その「TQC」はまさに80年代前半に生まれました。

『史上最大の木曜日』人物相関図

当時は決して強いクイズサークルではありませんでした。その「TQC」がほぼ初めて脚光を浴びたのが『第13回アメリカ横断ウルトラクイズ』だったのです。
第12チェックポイントの「チムニーロック」の時点で生き残ったのは6人。
RUQSの長戸と永田、名大クイズ研の秋利に対し、東大TQCが半数の3人を占めていました。
そしてそのうちのひとり、田川憲治が「ボルティモアの4人」として準決勝で史上最大の激闘を繰り広げることになります。
これまで大きな実績のなかった東大クイズ研「TQC」にとって、『東大王』ブームに至るその伝説の始まりこそ『第13回ウルトラ』だったのです。
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