その街の岡宗秀吾

(※一部修正しました。) 
阪神淡路大震災から16年が経とうとしている。
僕らはその悲劇の大きさ故、目をそらしがちだ。
昨年、震災15周年で放送されたNHKドラマ『その街のこども』は大きな反響を呼び、この度、再編集され異例の映画化にまでなった。この作品は、森山未來佐藤江梨子という共に震災経験者を主演に、紋切り型の悲劇・感動路線ではない、リアリティのある視点と演出が大きな話題になった。
その1年前、森山未來はNHKの同企画で『未来は今』というセミドキュメンタリーに参加している。『その街のこども』はそのアンサードラマといってもいい位置づけだろう。『未来は今』は、森山未來が「震災のドキュメントを作る」というメタドキュメント的ドキュメンタリーで、実際に森山未來が「伝える」という行為に悩み苦しむ姿が描かれている。作品の冒頭、ラストのナレーション録りができなくなって考え込む森山が映しだされる。
「この災害を忘れてはいけない」という言葉に違和感があるという。
森山未來は震災の時、10歳だった。

僕は10歳のとき、実家で大震災を受けたけど家族も家も失ってない。『未来は今』のなかでも話したけど、父親と一緒に給水所に行ったり、水を汲みに行った先で食べた野生のアケビが美味しかったり、楽しかった記憶が多いんです。でも実際にはすぐ近くで家族や家を失った人が、数えきれないほどいた。そういう方々に対して、負い目みたいなもんが……、ずーっと心にあるということに気付きました。(『クイック・ジャパン87』より)

『未来は今』では、「何も失っていない」森山未來が、実際に家族を失った被災者に会いに行く。震災の当事者同士ではあるが、決定的な距離がある。その距離がリアリティを生んだ。
「伝える」ことに怯えていた森山未來が、被災者の「もっと話したい。踏み込んで聞いて欲しい」という言葉で、「伝える」覚悟が出来ていなかったことに気付く過程が生々しく映しだされていた。


伝えなければならないものは悲劇だけではない。
「不謹慎」などと言われようが、楽しかった思い出を含めてありのままを語ることも絶対に必要で、『未来は今』を経験した森山未來が次に残したのが、「地震で学校なくなってラッキーやな」と笑う、その視点で描かれた『その街のこども』だった。


テレビディレクター岡宗秀吾も震災経験者である。
今の一方通行のメディアでは「不謹慎」とレッテルを貼られ、語れる機会が少ないものの、盟友大根仁が「人生で一番面白かった話」と絶賛する震災エピソードを持っている。
彼らのイベントなどでは何度となく語られてきたという、その話が、この度TBSラジオ『Dig』や神戸で行われ、Ustream中継された『テレビマンズ』で披露されたので以下に後者をもとに記録しておきたい。


※長いので畳みます。
また、こちら(『Dig』ポッドキャスト版)こちら(『テレビマンズ』)で聴くことができますので、是非実際に聴いてください。岡宗さんの面白バイアスのかかった声と語り口で聴くのが一番です。

その時、3Pをしていた。

1月17日5時46分。
21歳だった岡宗秀吾はラブホテルで3Pをしていた。

その頃よくクラブによく行ってたんですよ。
そこにえっらいスケベな女の子がいましてね(笑)
イイ娘なんですよ、ホントにイイ娘なんですけど。
天使のような女性がいて、その娘が「ちょっと3人でしない?」っていう話になったんですよ。
男2人と女1人ってことですよね。
(大根「誰を連想すればいい?」)
うーーん、倖○來未ちゃん(笑)。
で、僕はセンパイを誘ったんですよ。
その娘、尼崎に住んでたんですよ。
それで、ホテルでもう大変盛り上がったんですよ(笑)。
人生初3Pですよ!

それが「エラい盛り上が」り、「5時46分、バッチリ起きて」いたシュウゴ。

ただね、コトはある程度収まってて、僕なんかはタバコをすーっと吸って、
我は3Pをした男だ」と(笑)。
女の子はちょっと横になってて、ベッドで。センパイは風呂に入ってたんですよ。

そして、大きな揺れが起こる。
天井に吊られていたテレビモニターが彼女の体の上に落ちようとしているのに気付いたシュウゴはとっさにそれを手で押しのけて彼女を助けると、目の前に散らばった大量の煙草の吸殻を灰皿に闇雲に戻したという。

だから「火の元!」って思ったんでしょうね。全部消えてるんですよ。(実際は)ゴミをまとめてるだけなんですけど、テンパっちゃって。

パニック状態のまま廊下に出るとそこには裸のまま出てきたカップル達も。

「あ、こんなおっぱいしてるのか」って(笑)。
ていうのも見つつ、「アカン、アカン、出ろ、出ろ」ってなって、怖いからどさくさに紛れて出たんですよ。(ホテル代は)払ってないです(笑)。

ボロボロのカローラで。

状況もつかめないまま2人は、まずは彼女を送り返そう、とボロボロのカローラに乗って、そのホテルからすぐの彼女の家へ。

そしたら、ご両親が出てこられて、僕らものすごいいい人のふりして、
「大丈夫です」と(笑)、「娘さんは無事届けました」(笑)
ものすっごい感謝されたんですよ
同時に、でも親の顔見るのキツないかって、複雑な気持ちになって(笑)。

男二人になった彼らはそのまま実家を目指し、車を走らせることに。
ラジオでは少しづつその被害状況が伝えられていく。
最初、「5人」と伝えられた死者の数は10分おきに「100人」「200人」と増えていき、最終的には「5000人」近くにはね上がっていく。そして「震源地は淡路島沖」「三ノ宮は壊滅状態」という情報に、地震の知識を持たない二人は、震源地から三ノ宮より近い実家はもうダメだろうと家族の死を覚悟する。

で、そう思うと、(逆に)めちゃくちゃテンションが上がってきたんですよ。
だってホントは実家で寝てたら死んでたかもしれないじゃないですか。僕らはスケベな気持ちでその日たまたま尼崎に行ったから助かったっていう気持ちでものすごいテンション上がってきて、気持ち的にはまさに『AKIRA』ですよ。「♪ラッセラー、ラッセラー」って鳴り出すんですよ。

「よし、シュウゴ、行こっ!」
そんなテンションで意気揚々と実家を目指す二人は、まだ奇跡的に営業していたガソリンスタンドでホテル代になるはずで浮いた1万5000円を元手に給油と物品の調達をすます。

(普段どおり)「あーい、あーい、あーい」って言うてましたもん(笑)。「ありがとーござーいましたぁー!」ってなってましたもん。
だから僕、後々考えると、「正常バイアス」っていう効果があって、びっくりしすぎると普通の行動を取るっていう。あまりのも許容できなくて。さっきのタバコ拾うとかもそうなんですよね。
だから「あーい、あーい、あーい」の人もびっくりしすぎて、「はい、通常業務!」ってなったんでしょうね(笑)。

「バチバチのサバイバル気分」で通常なら1時間くらいで着く尼崎〜明石間を走る。
・神戸全域地図を車の天井に貼り付け有毒ガス発生情報のあった地域にドクロマークをつけ
・切断された高速道路の前で記念撮影したり*1
ボーイスカウトの経験を活かして獣道のような道を通ったり、
と、目一杯楽しみながら、1日以上かけてようやくセンパイを家近くまで送り届ける。

独りになるとめっちゃ不安になるんですよ。家帰ったら家族の死体とか見るのかな、とか。暗い気持ちになってきて。

しかし、実家周辺はそれほど大きな被害はなく、家族も無事だった。

家に帰るとお母さんと妹が出てきて「お兄ちゃんなにしてたん?」って(心配して)。
まあ、何をしてたかは言えないですけど(笑)。

サバイバル生活

次の日、シュウゴと同じく家族もみんな無事だったセンパイが「俺もヒマやと。友達を助けに行こう」と全身迷彩服でやってくる。
学校もバイトも行けず、身体はピンピンしていたシュウゴは同意してボロボロのカローラで神戸の街を巡っていく。
まずはじめに助けに向かったのはあるカップル。古いアパートに同棲していた二人だったが、なんとか無事だった。
彼女は当時でいうオリーブ少女でキャンドル作りが趣味だった。それをよく彼氏に「ちゃんと言わなアカンで!」などとディスっていたセンパイ。
しかし、そのキャンドルが震災後、大いに役に立つことに。
するとセンパイ、

おしゃれもたまには役たつのう!」って捨て台詞を吐いて。
俺もう胃よじれるほど笑って。


次に救出に向かったのは当時シュウゴが「好きで、したかった」女の子。
住んでいた建物は1階が完全に倒壊し、彼女が住んでいた3階も扉が開かなくなっており、閉じ込められている状態だった。
「ヤリたい」一心でその扉をバールでこじ開ける*2シュウゴ。脱出出来る状態になって呼びかけると

ちょっと待って、化粧終わってないねん

この状況でもおしゃれを気にする女の子。結局、赤いモヘヤの帽子を被って出てきたという。
そうして、「私、誰も助けに来てくれへんねん」と泣く当時不倫して愛人状態だった女の子など総勢10人前後で米と井戸のあったシュウゴの家で共同生活を始めることになった。

瓦礫の上のミニスカート

「もっと大きい地震が来るというディテールの細かいデマが流れた」
ジャイアント馬場瓦礫を歩いてた(後にそれが本当だったことが分かった)」
女子タオルというルールが勝手にできた」
「夜、女の子は不安でシクシク泣くことがある。可愛らし」
マクドナルドから支給されるバンズの上のフワフワした部分を女子にゆずる男子。モテようとして
この年の年末に産まれた子がメッチャ多い
山口組の炊き出しは美味かった。肉が分厚くて
などなど人間はまぬけでたくましいと思わせてくれる印象的なエピソードが連発される。
それらを聞くと「人間って凄い!」と当事者でもないのに何故か誇らしい気分になってくる。

こういう話っていつも不謹慎だって言われますし、神戸から東京に上京した時も皆さん腫れ物に触るような、こういう事聞いてもいいんですか?みたいな雰囲気だったんですけど、僕はしゃべりたかったんですよね
もちろん、亡くなった方とかいろんな被害を受けられた方とかいる反面で、僕らみたいないろんないい経験をさせてもらったっていうか、そういう人間もいるっていうのをなかなか喋りづらいんですよね。面白い話も含めて。じゃあ、あの時に一切笑いがなかったかと言われれば、全然笑いもあったし、もちろんその中には身内の方が亡くなられた人だって同じようにね。そういうことが語られない。リアリティがある部分が。
よく「Xデー近し!」みたいに煽って「あなたの家は大丈夫?」みたいな番組ありますけど、大丈夫かどうかなんてね、わかんないというか、さらに、天災じゃないですか。犯人もいなければ誰かが悪いからそうなったわけじゃなくて、お金持ちだから、貧乏人だから、カッコイイから、可愛いからどうだってことはまったく関係ないところで、そういうのが起きてるってことをバチンとああいうところで体験したことは僕にとってプラスだったんですよね。
それを言いたいんだけど、言おうとすると「不謹慎だ」って抑えられるんですよね。それに対する違和感があって。もちろんそっちの「不謹慎だ」っていう意見もあっていいんだけど、そうじゃない方の意見がまったく喋れないっていう雰囲気はすごく不健康だって。
あの時に爆笑したり、スケベな気持ちになったとか、そういうのを言うのが、無しになってると、とにかくリアリティがないんですよね。自分に置き換えれないじゃないですか。それ以外の地域に住んでる方々が。

岡宗秀吾は最後に一番覚えている話として父親と壊滅状態だった祖母の家へ行ったときのことを挙げている。祖母の家はほぼ全壊状態で瓦礫に埋まっていたという。
父は「位牌だけでも探そう」と瓦礫を片付けていた。
するとその傍らに20歳くらいの若い女性の遺体が横たわっているのを目にする。
その首には段ボールで作られたプレートがかかっており、「彼女は娘の友だちで、家に泊まりに来て娘も彼女も亡くなってしまったから、身元不明である。瓦礫の下のままだと分からないまま腐ってしまうので瓦礫の上に出している」旨が書かれていた。
彼女はミニスカートを履いており、時折吹く風でスカートがめくれパンツが見えてしまうような状態だった。

不思議なもんで僕と父親はスカートがめくれるたびにチラッと見ちゃうんですよ。
反射的にね。エッチな気持ちがとかじゃなくて。
それを横にいたおばあちゃんが(スカートを)何度も戻すんですよね(笑)。
その時にエラい感動してもうて。
死んでもお前に見せていいパンツじゃない!
っておばあさんに言われた(ように)睨まれて。


岡宗は大根仁にこの一連の話を何度となくしている。大根は2008年11月のイベントで岡宗が語った最後の締めを自身の日記に書き起こしている。

(略)
その悲惨を乗り越えるには笑うこと、笑える力ってメッチャ大事やぞ!と。それまで嫌ってた人とかまったく知らん人と笑いを共有するってすごいパワーになるんですよ。最後に勝つのは笑いとユーモアやぞ!ってね、そういうことをね、あの震災に関しては誰かそろそろちゃんと言わなあかんぞと思うんですよ。

*1:他にも多くの人がやっていた

*2:もちろん、今思えば大変危険な行為