1981年のタモリ

『ヨルタモリ』についてまとめたエントリを書いた翌日に『ヨルタモリ』終了のニュースが飛び込んできて動揺していますが、本日8月22日はタモリさん、70歳の誕生日! 古希! 希望です。昨日のエントリを読んでもらえば、この終了が悲観するものではなく、またタモリさんが自由に新しいことを始めるのだなと確信が持てて、希望が湧いてくるのではないでしょうか。littleboy.hatenablog.com
また、先日発売された『タモリと戦後ニッポン』がべらぼうに面白く、よりいっそうタモリさんの新しい展開が楽しみになってきました。
 ■■-っ  ■■-っ  ■■-っ

タモリ「ちょっとね、生年月日、僕は言いたくないんですよ。だって、昭和20年8月22日生まれでしょ。ということは、昭和19年の秋、敗色濃い日本で、僕の両親は一体何を考えてんだということになりますから(笑)」(『NHKスペシャル』「戦後70年ニッポンの肖像」より)

と、タモリ本人が語るように、タモリは終戦の1週間後、1945年8月22日生まれ。だから当然、終戦70周年の今年、70歳の古希を迎える。

タモリ「戦争の前後1週間以内に生まれた人は、ぼく、ともだちには、いないんですよ。だから、ぼくは、『戦後にいちばん近い』っていう……。『戦後の象徴的な人物だ』と、自分では思っているんだけど、ま、誰も、そんなこたぁ、思っちゃいないですね」(ほぼ日「タモリ先生の午後2006」)

そんな「タモリの足跡を通じて戦後ニッポンの歩みを振り返る」というコンセプトで書かれたのが、8月20日に発売された近藤正高による『タモリと戦後ニッポン』だ。

タモリと戦後ニッポン (講談社現代新書)
近藤 正高
講談社
売り上げランキング: 131

これは、「ケイクス」にて連載されていた「タモリの地図---森田一義と歩く戦後史」を元に、新たな取材や資料などを踏まえ大幅に加筆修正されたもの。
僕の『タモリ学』をはじめ、あまた出たタモリ関連の書籍としては後発ではあるが、「結果的に、企画が出遅れたおかげで、関係者の新たな証言などを存分に参照し、検証を重ねながら連載を進めることができた」と著者が「おわりに」で書いているとおり(実際、僕の名前や著書が「おわりに」や「参考文献」のみならず本文中にも何度も出てきて恐縮でした。しかも書籍や大タモリ年表のみならず、ブログ記事にまで言及されているのには驚きました)、タモリ史を巡る本として決定版ともいえるだろう。
だから今からタモリのことを詳しく知りたいという人は、タモリ史についてはこの『タモリと戦後ニッポン』を、タモリの哲学については『タモリ学』をまず読んでもらうと間違いない(あつかましく宣伝)。


タモリと戦後ニッポン』がどのような本なのかを端的に示すのは「はじめに」に書かれたこの一文だ。

私はあえて、タモリを軸に戦後70年の「国民史」を描いてみたいと思う。ここで採るのは、タモリを起点に人と人とのつながりをたどっていくという方法だ。そうした関係性からある時代の日本(人)の姿を浮かび上がらせることはできないか、というのが本書のいま一つのねらいである。
        (略)
私が本書でとりあげたいのは、たとえばこんな話である。
あるときタモリは、ゴルフの練習場でたまたま出会った「見た目がヤクザみたいな男」と一緒にゴルフに出かけることになった。その男の運転する車で話をするうちに相手が自分と同い年だと知る。そこでゴルフ場に着くまで暇つぶしに、自分たちが生まれてから一年ずつ、その時々で何をしていたか互いに話すことにした。そうやって話しているうち、意外にも両者はかつてあるところですれ違っていたかもしれないことがわかった。
        (略)
本書ではもちろんタモリと場所と時間を共有した著名人もたくさんとりあげるつもりだが、それとあわせて、例の「見た目がヤクザみたいな男」のようにタモリとどこかですれ違ったはずのより多くの人たちにも目を向けたい。そんな有名無名の人たちとの接点にこそ時代性とやらは宿っていると思うからだ。

たとえばタモリの大学時代。タモリは1965年早稲田大学に入学している。まさに学生運動が始まる時期と重なる。入学した年に「早大紛争」が起こったのだ。だが、タモリはこれには一切かかわり合いを持とうとしなかった。よく「何を言ったか」よりも「何を言わなかったか」の方が重要、というような考え方があるが、まさにそれだ。本書にはこの早大紛争のことも詳しく書かれているが、だからこそ、それに参加しなかったというタモリの特異性が浮かび上がってくる。また本書では当時の大学進学率のデータなどから、この頃の大学生がいわゆる「エリート層」で、今の大衆化された大学生とは異なることも明らかにしている。
さらに本書は福岡に帰郷しサラリーマンとなった時代のことに関してもっとも詳しい。なぜなら、このサラリーマン時代のタモリにとってキーマンとなっていた高山博光に取材を敢行しているからだ。他にも本書では山下洋輔にも話を聞き、ひとつの謎であったタモリとの例の出会いの際、実は先に紹介されていたという説*1について結論を下している。
さらにタモリとの関係の深い「スタジオアルタ」の成り立ち過程や、名古屋人とエビフライの関係などなど興味深い話は数多くでてくるが、僕がもっとも膝を打ったのは、第6章である。章の扉写真には、「1年前、女性たちがいちばん嫌い、に挙げた人。なのに、ことしはいちばん好きな人、です。」という秀逸なコピーが踊る1981年の千趣会の新聞広告が使われている。
そう、1981年こそがタモリにとって「タモリ・イヤー」と呼ぶべき、ターニングポイントになった年だというのだ。
この年、『今夜は最高!』は始まっているが、『笑っていいとも!』や『タモリ倶楽部』が始まった1982年こそ、「タモリ・イヤー」だとするのが一般的だ。だが、本書はいかにその前年の81年が重要だったかを検証している。

八一年がタモリ・イヤーとなったのも多分に戦略的なものであった。田辺はその前年に「来年はやれる仕事は何でもやろう、内容を考えてやる年ではないと決めてかかった」という。「当然疲れもするだろうし、問題も出てくるだろう。だが、そこで整理されるはずだ」という考えがそこにはあった。

確かに、「大タモリ年表」を見なおしても、81年の仕事量は多い。
先出の『今夜は最高!』に加え『夕刊タモリ こちらデス』もスタート。既にレギュラーだった『テレビファソラシド』やラジオ『だんとつタモリ!おもしろ大放送』もあった。これらの番組で主婦層にも急速に支持を広げていった。また、名古屋五輪招致失敗を機に名古屋人批判を控えるようになり、さだまさし批判も終結を宣言。毒舌イメージからの脱却をはかっている。さらに『ラジカル・ヒステリー・ツアー』をリリースし、全国ツアーも行っている。主婦層への人気拡大とこのツアーで見せたアドリブ力を買って横澤彪タモリを『いいとも』に起用したと言われているのだ。加えて、国鉄や民放連、朝日新聞などのCMにも出演している。

民放連のCM制作にあたっては、タモリがいかにイメージチェンジをはかろうとしたか、象徴的な話が残っている。このCMは、九月で日本における民間放送開始から三〇年になることから、その記念事業の一環として八月に放送された。その内容は、「今まで、これから、ずうっと長い友だちというキャッチフレーズのもと、タモリが往年の民放の番組主題歌をメドレーで歌うというものだった。(略)
じつはこのときもう一種類、タモリではなく、親子二代のタレントを起用した「ラジオ・テレビ新世紀」という企画が用意されていた。しかしこれに対し、タモリの所属事務所から一種類だけに絞ってほしいと出演交渉中に申し入れがあったという。これというのも、すでに朝日新聞のCMに出演が決まっており、事務所側としては、《活字と電波、つまり、マスコミを制覇したタレントとしてタモリを印象づけたいというのが(中略)戦略のようだった》と小田桐は書いている。

国鉄のCMでも、当初、中洲産業大学風のプランが用意されていたが、タモリ側から「堅っ苦しく、律儀にやりましょう」と提案されたという。

CMにおいても事務所とタモリは一体となり、アクの強い芸風から洗練されたイメージへと転換が試みられたのである。

さらに付け加えると、82年に公開された映画『キッドナップ・ブルース』の撮影もこの年に行われている。
こう並べてみると、1981年がタモリにとっていかに重要だったかが分かってくるのだ。
しかも、それを極めて戦略的に行っていたという事実に驚かされる。
1981年。
それはタモリがカルト芸人から国民的タレントになるスタートの年だったのだ。

タモリと戦後ニッポン (講談社現代新書)
近藤 正高
講談社
売り上げランキング: 131

*1:「コンボ」のマスター・有田を介して、公演後に山下らにタモリは紹介されていたが、突然の闖入者だったとしたほうが面白いからと話を作ったとする平岡正明の説