水道橋博士が語る松本人志論
8月21日深夜にラジオ日本で放送され、現在ポッドキャストとして配信されている「ラジカントロプス2.0」の水道橋博士ゲストの回。
放送作家植竹公和を聞き手に、博士が、自分の経歴から、太田光論、そのまんま東論、マキタスポーツ論と、語りに語り、すべてが聴きどころ。
中でも、水道橋博士が語る松本人志論はあまりに興味深く刺激的だった。
これは実際に聴いてもらうのが一番だけど、いずれ聴けなくなってしまうと思うので抜粋してテキスト化しておきます。
博士は、40歳になるまで、ダウンタウン関連の番組に呼ばれることはあったが、すべて断っていたという。
それは「臣は二君に仕えず」という気持ちがあって。
ホントに凄いと思ってるからこそ、そこで奉仕してはならない、という気持ちがあるから仕事は受けなかった
ビートたけしを唯一無二のお笑いの師に選んだに博士にとって、それに匹敵する凄さを持った者の下で仕事をすることは信条としてできなかったのだ。
でもね、ダウンタウンが売れ出した頃に、たけしさんが、「今、ダウンタウンってすごいのか?」って呑みの席とかで言った時に、取り巻きの人たちが皆、「いやぁ、全部たけしさんのモノマネですよ」みたいなのを言ってるのを聞いてると、「もう、全然違うよ」ってホントに自分の中だけで叫んでたね。
松本人志の世代であれば、そんなビートたけしの影響下にいるのは自然の成り行きだ。
しかし、博士はそれを否定している。
たけしさんの影響下にあって発言しているのではなくて、「放送室」ってラジオを俺は最初から最後まで全部聴いてたけど、もうホントにライオンは同じことを口にするんだって思うほど、やっぱ似てるんだけど、影響下では言ってないね。ただ、発想が同じになっていくっていうのはよく解る。
では、「聴覚的笑い」の権化である島田紳助の影響は受けているのだろうか?
(松本は聴覚的笑いより)造形的なお笑いのセンスみたいなところだから、例えば、才能を証明する時に、彫刻を彫れるかっていったときに、パッと才能がある人とない人って解るじゃないですか。そういう意味の彫刻性があるというか、造形的な絵が見えてる感じっていうのが、松本人志の笑いっていうのは常にあるし、そこに帯びてるペーソスみたいなものもあるし、やっぱちょっと並じゃないな、と思う。
そのずば抜けたセンスを博士はこう評する。
なんかその範疇が、その後ダウンタウンが作るコントとか見ていても、20年かかっても誰も追い付いてない感じがするんですよ。その、今まで発表してきた、一週間単位でフジテレビでやってたやつなんかに比べても。他のコント番組でもあれを越えて行っているものはないって思うし。
グラフで言えば、波線がある。ちょっと飛び抜けてる感じ。それが、自分の中では常にあってね。
そして、ダウンタウンは、バラエティの本質まで軽々と凌駕していった。
マッスル坂井っていうプロレスラーで、劇作家みたいな才能のある人がいるんですけど、その人がバラエティに出たとき、「バラエティっていうのは“強い”奴が笑わせるんだ」っていう感覚を言うんですよ。ていうかそれはパワーオブバランスで強い人が笑わせるっていう感覚は、バラエティ出てる人なら、誰でもあると思うんです。たけしさんが話せば笑わなければならない、っていう感じ。
笑いっていうのは、「面白さ」じゃなくて、「強さ」なんだよ、っていうのはテレビの世界には絶対的なルールなんだけど、あまり語られないんですよ。
だけど、ダウンタウンは純粋に新人の時から、(普通)それは積み重ねのキャリアの中で強さっていうのは重ねていくんだけど、(彼らは)もう一年目の時からホントに強いんですよ。見てて。
自分が「ガキの使い」を見出して、最初のうち漫才やり出して、そっからフリートークに変えて、数週経ったとき。もうこれ、ケタ違いだと思った。
40歳になった水道橋博士は、ダウンタウン関連の番組にも顔を出すようになった。自分がもうビートたけしのような存在になることが出来ないことを悟り、その競争から降りたことを理由のひとつに挙げている。
よく、松本人志が、才能を過剰に誉められてる説なんかが常にあるけど、全然、(そんな評価じゃ)見合わないよ、って思いますもん。
そして、もう一つ松本の番組に出るようになった理由があるという。
それは、松本人志が「凄いことは凄いんだ」と言いたい気持ちがあったからだと。まだまだ評価が足りないのだ、と。