1958年の「日劇ウエスタン・カーニバル」

日劇エスタン・カーニバル」をご存じでしょうか。
ある世代にこんな質問をすれば、「バカにするな!常識だろ!」と怒られてしまうであろうほど、日本の音楽史を代表するライブイベントです。
その名の通り「日劇」こと日本劇場を舞台に行われていました。一方「ウエスタン」という名前がついていますが、「ウエスタン」の祭典と呼べるのは初期まで(といっても初期でさえもウエスタンというよりはロカビリー)。その後は様々なジャンルのミュージシャンが出演していました。ミュージシャンが一堂に会するという意味では音楽フェスのはしりと呼べるのかもしれません。
日劇といえば、日本随一の権威を誇っていた劇場。そこに熱狂的なティーンのファンが押し寄せました。

第1回日劇エスタン・カーニバルのパンフレット

東京を震撼させた7日間

とりあえず概要を知るために便利なウィキペディアから引用すれば、1958年2月に1週間にわたって開催された「第1回日劇エスタン・カーニバル」は、「観客動員数は初日だけで9,500人、1週間で45,000人を記録した。この数字は、ドーム球場日本武道館といった大規模なコンサート会場が存在しない1950年代当時としては、異例の記録である。この企画が当たったことで、以後も定期的に開催されるようになった。1950年代にはロカビリーブームを生み、1960年代後半にはグループ・サウンズ(以後GS)ブームが巻き起こった」とあります。
当初、「日劇エスタン・カーニバル」は、出演バンドのほとんどが無名な存在だったため、開催に難色を示され、普段客の入らないとされる二・八(ニッパチ=2月と8月)ならば、と了承を得て開催されました。けれど、前述のように予想を遥かに上回る大盛況。「東京を震撼させた7日間」とまで評されました。その結果、1958年の初年度だけで、2月、5月、8月、12月と4回も開催されることになりました。
平尾昌晃、山下敬二郎ミッキー・カーチスが「ロカビリー3人男」と呼ばれ人気が爆発する着火点は「第1回日劇エスタン・カーニバル」でした。また、中期にはザ・スパイダースザ・タイガース、ザ・テンプターズなどのGSバンドが熱狂を生み、さらには、(初代)ジャニーズやフォーリーブスなど初期ジャニーズアイドルグループの活躍の場のひとつになっていました。

日劇エスタン・カーニバル」が始まった1958年は、どんな年だったのでしょう。
子供たちの間では、フラフープが大流行していました。また、読売巨人軍長嶋茂雄が入団したのがこの年です。全盛期の国鉄スワローズの大エース・金田正一を相手に4打席4三振というデビューで強烈なインパクトを与えました。当時の国民的ヒーローと言えば力道山。ちょうどこの年、ロサンゼルスでルー・テーズを破り、インターナショナル選手権を獲得しました。相撲では栃錦若乃花が名勝負を繰り返し「栃若時代」が始まりました。こうしたヒーローたちの人気に一役買ったのがテレビでした。この年、電波塔である東京タワーが竣工。初の民間出身の皇太子妃として「ミッチーブーム」が起こり、翌年予定されていた結婚パレード中継などを契機にテレビ普及率が急増。「ラジオ」から「テレビ」への転換期でもありました。

「横文字系」芸能プロダクションの誕生

そう、この1958年は、芸能界あるいはショービジネスの大きなターニングポイントだったのです。
その震源地こそ、実は「日劇エスタン・カーニバル」でした。
なぜなら、この1958年の「日劇エスタン・カーニバル」に、その後「芸能界」で重要な役割を担う人たちが揃っていたからです。
この企画を日劇に持ち込み「ロカビリーマダム」などと呼ばれ脚光を浴びる渡辺プロダクション渡邊美佐やその夫の渡邊晋はもちろん、美佐の両親で「戦後初の芸能プロダクション」と呼ばれるマナセプロを興した曲直瀬正雄・花子夫婦やその娘の曲直瀬信子や翠、そしてのちに家業を継ぐことになる曲直瀬道枝もまだ10代の頃に会場に訪れていました。
このライブの企画発案者でありウエスタンバンド「スイング・ウエスト」のリーダーとしてギターを弾いていた堀威夫は、のちに渡辺プロの対抗馬となる「ホリプロ」を設立することになります。
スイング・ウエストにはもうひとり「芸能界」で重要な存在となる人物がいました。ドラマーであった田邊昭知です。彼はその後「ザ・スパイダース」の活動を経て、裏方に回り「田辺エージェンシー」を設立します。
山下敬二郎のバンド「ウエスタン・キャラバン」のリーダーは相澤秀禎。彼はのちに「サンミュージック」を立ち上げました。
山下敬二郎の付き人であった井澤健はその後、「ザ・ドリフターズ」のマネジメントを長年担当し「イザワオフィス」を指揮することに。
平尾昌晃のマネージャーを務めていたのは「呼び屋」として名を馳せる永島達司でした。のちにビートルズ招聘を成功させるプロモーターとして有名です。平尾自身もやがて裏方にまわり作曲家として大成していきます。それはミッキー・カーチスも同様で、キャロルなどのプロデューサーとしても力を発揮していきました。
夏に行われた第3回には「井上ひろしドリフターズ」も参加。ここにはのちに「第一プロダクション」を興す岸部清がいました。「上を向いて歩こう」で世界的ヒットを飛ばす前の坂本九ドリフターズのバンドボーイからメンバーに昇格し、「日劇エスタン・カーニバル」の舞台を踏んだのもこの回。その坂本九の勇姿を見ようと客席にいたのは、彼の同級生でもあった飯田久彦。第一プロに所属し歌手としても「ルイジアナ・ママ」で大ヒットすることになる彼もまた、のちに裏方へと回り、ディレクターとしてピンク・レディーなどを育てていくことになります。
堀とともにこのライブを発案した草野昌一は雑誌『ミュージック・ライフ』でポピュラー音楽文化を啓蒙するとともに訳詞家「漣健児」として和製ポップスの源流を生み出しました。その『ミュージック・ライフ』にも執筆し、ブレーン的立場でウエスタン・カーニバルを支えたのが日本のテレビ草創期を代表するテレビマンの井原高忠。既に日本テレビの局員として番組制作をしていましたが、元々はバンドマン。かつての同僚である堀らを外側から支援していました。また、ジャズミュージシャンとして活躍していた中村八大は、渡邊晋から日劇エスタン・カーニバルを観て勉強するようにと言われ日劇を訪れています。その帰り道、有楽町の路上で永六輔とばったり会い、その後、数多くのヒット曲をつくるいわゆる「六・八コンビ」が誕生するのです。
加えていえば、この後の日劇エスタン・カーニバルではジャニーズ事務所ジャニー喜多川も重要な役割を果たすことになります。
ちなみに堀威夫は、戦前からある旧来型の芸能プロダクションを「縦文字系」、戦後生まれた新しい形式のプロダクションを「横文字系」と区別しています。
つまりは戦後日本の「芸能界」を支える代表的な「横文字系」芸能プロダクションの創設者の多くが「日劇エスタン・カーニバル」関係者であり、それを表から裏から支える人物も少なからずそうだったのです。現代日本の「芸能界」=芸能ビジネスは、日劇エスタン・カーニバルから始まったと言っても過言ではないのではないでしょうか。

では、どうしてプレイヤーであった彼らが裏方に回り、芸能プロダクションを立ち上げることになったのか。
若者たちがどんな苦悩と挫折を味わいながら、そこにたどり着いたのか。
そんな群像劇を描きたいと思い、マナセプロの曲直瀬道枝さん、ホリプロ堀威夫さん、田辺エージェンシー田邊昭知さん、飯田久彦さん、渡辺プロ1期生の工藤英博さん、3期生の阿木武史さんを始めとする関係者の取材で得た貴重な証言や過去の資料をもとに執筆したのが、『芸能界誕生』です。

9月20日新潮新書から発売されますので是非!