9月20日に発売となる『芸能界誕生』(新潮新書)。
すでに一部書店では店頭に並んでいるところもあるようで、読み始めてくださっている方もいらっしゃるかと思います。ありがとうございます!
今回は、本書の前半をダイジェストとして抜粋(補記等、一部修正しています)してざっくり紹介します。
序章 1958年の日劇ウエスタン・カーニバル
1958年に始まった「日劇ウエスタン・カーニバル」。すべてはここから始まりました。本書もその「第1回」も模様からスタートします。
1958(昭和33)年2月8日――。
その日の早朝には日劇の周りを大勢の人たちが二重三重に取り囲んでいた。そのほとんどは10代の若い女性たちだ。彼女たちは外で徹夜をしながら今か今かと開場時間を待ち構え、ある者は現在の表現でいえば「推し」の名前を叫び続け、ある者は居ても立っても居られずその場で踊り出した。
「いったい何事ですか!?」
本番を控え、深夜から早朝にかけてリハーサルをしていたところに警察官が飛び込んできた。公演を主催する渡辺プロダクションの副社長・渡邊美佐は混乱した。
「こんなに大勢集まって、何か起きたらどうするんだ!」
その時、美佐は初めて外を見て「わぁ、スゴい!」と驚いた。
「前もって連絡してくれなくてはこっちが困るじゃないか!」
説教を続ける警察官に、「そんなこと言ったって、こっちだって分からなかったんだ。分かってたら苦労しない」と心の中でつぶやいた。
(序章 1958年の日劇ウエスタン・カーニバル)
堀威夫はその熱狂をこう振り返っている。
舞台にバンドが5つか6つ出ると、それぞれのファン同士で人気を競い合うような形になってああなったんだと思うね。ウエスタン・カーニバルで日本のコンサートが変わったと思いますよ。僕は音楽会というよりスポーツだと思った。勝った負けた、というのがウエスタン・カーニバル。これで興行形態が変わりましたね。それまでは音楽の世界に勝った負けたなんてなかった。
最初はサクラみたいに熱心なやつに紙テープを配ってやらせたのが、伝染病みたいにみんな自分で持ってくるようになっちゃった。駆け上がって抱きついたりなんかするようになってくると、やまとなでしこはそんなことをやると思ってないわけだね。だから日本の女性も変わったなって思ったよね。(堀威夫)
「東京を震撼させた7日間」、あるいは「ロカビリーの7日間」――。
この熱狂は大きな社会現象となった。7日間で観客動員は、延べ4万5000人に達する大盛況だった。
(序章 1958年の日劇ウエスタン・カーニバル)
第1部 進駐軍とジャズブーム
時代は遡り、戦後まもなく。占領下で進駐軍が求めたのは、娯楽。とりわけ音楽でした。そこで生まれたのがバンドを斡旋する「芸能社」であり、そこから発展し現代型の「芸能プロダクション」が生まれていきます。現存する戦後初のプロダクションと呼ばれる「マナセプロダクション」が誕生するのは、仙台での偶然の出会いがきっかけでした。
やがて日本は独立。空前のジャズブームが到来します。
ある朝のことだ。北上川が流れる宮城県登米郡登米町(現在の登米市)にひとりの進駐軍将校が馬に乗ってやってきた。(略)
将校は頭を抱えていた。見渡す限りの田んぼと畑。わずかに家屋はあっても、彼の目にはただただ同じ風景にしか見えなかった。やがて方向感覚を失い道に迷っていた。一体いつになったら役場にたどり着けるのか。道行く日本人に話しかけても、英語がわからずただニヤニヤ微笑みかけられるか、酷い時は、一目散に逃げられる始末。途方に暮れていた。
ふと、川沿いを散歩している老婆が目に入った。どうせまた徒労に終わるのではないか、と思いつつも、他に方法はない。将校は彼女の元に馬を走らせ、「Hi!」と声をかけた。そして、役場にはどうやって行ったらいいのか、とゆっくりとジェスチャーを交えて尋ねた。
「この道をまっすぐ行くと、向こう側にありますよ」
彼女は、流暢な英語でそう答えた。将校は心底驚いた。なにしろ、こんな田舎道で、しかも老婆が綺麗な英語を喋っているのだ。信じられないという表情を隠せないでいると、彼女は続けてこう言った。
「うちの嫁はもっともっと英語が達者ですよ」
(第1章 仙台の曲直瀬家)
日本のジャズは東北から出てきたという一面もあるんです。ナンシー梅木さんも北海道からどうしてもジャズをやりたいからアメリカへ行きたいと思ったんだけど、「まず仙台に行って曲直瀬さんのところの音楽に触れたい」と言って、仙台にしばらくいたそうです。実は仙台はジャズの一大拠点のようになっていたんです。ジョージ川口さんや中村八大さん、松本英彦さんも来たことがあるし、平岡精二さんも来た。それこそ美佐と出会う前の渡邊晋さんもね。(曲直瀬道枝)
(第1章 仙台の曲直瀬家)
のちに“ビートルズを呼んだ男”と称されることになるプロモーターの永島達司も進駐軍ビジネスで活躍した男のひとりだ。
駐留軍時代からこの世界にいて秀逸の人間というのは永島達司氏。僕は70年近い付き合いなんだけど、これだけの人物というのは、よその業界を見てもあまりいないね。永島達司というのは、芸能界の中で一つの歴史の足跡として絶対に欠かすことのできない人。恐らくもう二度と出ないと思います、ああいう人物は。(堀威夫)
(第3章 芸能社の興亡)
ジャズミュージシャンは進駐軍キャンプを主戦場にしていたため、既存の芸能プロに所属しなくても活動することができた。しかし、進駐軍はもういない。米軍相手の仕事は急速に先細りし、進駐軍キャンプから生まれた「芸能社」は一気に衰退した。ジャズブームも下火になっていけば、バンドマスターや個人マネージャーに頼ったジャズミュージシャンたちはたちまち失業してしまうだろう。ジャズメンたちにもマネージャーが絶対に必要になってくる。マネジメント業を組織化し、企業化すること。それが、(渡邊)晋の新たな夢となったのだ。
「その夢を実現するために、ぜひ君が必要なんだ」
晋が美佐に初めてプロポーズしたのは1953年のことだった。
(第3章 芸能社の興亡)
第2部 ジャズ喫茶とロカビリーブーム
占領下の日本の若者たちは、ある者はアメリカの文化へ憧れ、ある者は金を得るため、ある者は流れに身を任せ、バンドを始めました。
やがて彼らはロカビリーを演奏するようになっていきます。まずはジャズ喫茶からティーンたちを中心に火がつき、ついに日劇での「ウエスタン・カーニバル」開催へとたどり着きます。
うちが旅館をやっていて、部屋が空いていると賃貸でもいいよって下宿も受け入れてたわけ。そこに入ってきたのがシャープス&フラッツでベースを弾いていた舟木明行さん。あまりにも俺がチンピラっぽくなっていくのを心配したんだろうな、おふくろが。俺に内緒で舟木さんに相談したみたいなんだよ。そしたら「お母さん、じゃあ僕の仕事場へ連れて行ったらどうですかね。非行とか、そういうのから抜けられるかもしれない」って。それで横浜のEMクラブに連れて行ってもらったの。(田邊昭知)
当時、田邊は明治大附属中学校の2年生で15歳だった。母は渋谷で旅館を営み、女手ひとつで彼を育てていた。それでも、子供の頃の田邊は、父のいない寂しさを感じたことはなかった。それほど、母は明るかった。また、彼女の手腕で経済的にも苦しむことはなかった。
そんな環境だったから「自分がしっかりして母を支えなきゃ」という自立心は人一倍強かった。けれど、少年時代の田邊は何をどうすればいいかわからない。そんなときに出会ったのが「音楽」だったのだ。
(第4章 バンド少年たち)
井原(高忠)さんというのは非常に几帳面なところがあってね。それから変に人を脅かすウイットみたいなものも持ち合わせている人。当時みんなたばこ吸っていて、井原さんも吸っていた。楽屋なんかで「1本頂戴」なんて井原さんに言うと、烈火のごとく怒られるわけ。「いいか、おまえら。家を出るときに自分が今日1日何本吸うかって分かってるだろう。俺はそれを持ってきているから、1本やるということは1本足りなくなっちゃう。だからちゃんと持ってこい」って。
時間もものすごく厳しかった。忘れもしないんだけど、昔のコマ劇場に向かって左角、今は大きなビルになっているけど、あそこが新宿松竹という映画館だったんです。そこに映画の合間に実演でワゴン・マスターズが出ていた。その実演の前の集合時間に、僕と小坂一也が5分遅れて行ったら烈火のごとく怒って、「帰れ」って話になった。帰っちゃったら一番困るのは井原さんのはずなんだけど(笑)。帰れって言っても帰らないという確信を持っていたんだろうね。当時いわゆる楽隊の連中というのは、どっちかといえば時間とか約束、金銭的にもルーズなところが格好のいいみたいな変な価値観があったんだけど、僕は井原さんのおかげで、そういう部分を鍛えられた。そういう意味でも感謝してますよ。(堀威夫)
(第4章 バンド少年たち)
ヴィデオホール版「ウエスタン・カーニバル」は、日劇ウエスタン・カーニバルが始まる4年前の1954年から始まった。夏はハワイアン、春と秋にウエスタン・カーニバルを開催し、その他の月はジャズのコンサートを開催していた。
(略)
『ミュージック・ライフ』誌のリポートに「本邦ウエスタン界最大の催しのひとつ」で「何処のバンドでもこのカーニバルが近ずくと多忙の時間を割いて、当日のレパートリイ(演奏曲目)の総仕上げにかかる」と書かれているようにウエスタンバンドにとって重大なライブだったことがわかる。会場には入りきれないほどのファンが詰めかけ「客席からあぶれた人達は通路に坐る有様」だったという。その多くがティーンエイジャーだった。
「乱れとぶ花束と5色のテープは舞台と観客席をつなぎこの日の七つのバンドの四十八名のプレイヤー、歌手を驚かせた」とその様子がリポートされている。ここで興味深いのは、日劇ウエスタン・カーニバルを象徴する「客席からの紙テープ」が既にヴィデオホールでも飛んでいたということ。
すべての“準備”は整っていたのだ。
(第5章 もうひとつのウエスタン・カーニバル)
日劇ウエスタン・カーニバルで人生が変わったのは出演者たちだけではない。
カーニバルをプロデュースした渡邊美佐は、「ロカビリーマダム」あるいは「マダム・ロカビリー」などと祭り上げられ、時代のヒロインとなった。若い女性たちの羨望の対象となった、いわばもうひとりの時代の申し子だった。
当時の彼女の様子をリポートした記事にこんな記述がある。
「毎日楽屋口に陣取っていれば、女学生ならずとも、“マダム・ロカビリー“がだれであるか、くらいはすぐ判る。
ファンに囲まれた“平尾さん”も“敬ちゃん”も、“マダム・ロカビリー”をみると、照れたような笑いを浮かべて、彼女のあとについて行ってしまうからだ。その甘えたような目が、楽屋口のファンたちを、時にはセン望にたえがたくさせ、時には激しいわけの判らぬシットにおとしいれてしまうのである」
美佐は、こうした状況に「面はゆい」などと戸惑い、まるで不良少女の製造者のような扱いをされてカッと頭にきたと振り返っている。「第一、語感にたまらぬ不潔感があった。いかにも軽佻浮薄、そのくせ妙にこざかしい、ぬらぬらしたいやらしさを『マダム』の言葉から受け取った」という。
(略)
渡邊美佐は、おそらく戦後初めて、ショービジネスの裏方として脚光を浴び、スターになったのだ。
(第6章 日本劇場とウエスタン・カーニバル)
物語は、「日劇・ウエスタン・カーニバル」によって大きな力を持った渡辺プロは、テレビの力をいち早く見抜き、その勢力を拡大。一方、その「ウエスタン・カーニバル」企画者のひとりである堀威夫は、やがて渡辺プロと袂をわかち対抗するプロダクションを作っていく「第3部 テレビと和製ポップス」へと続いていきますが、今回はここまで。
是非、本書でお確かめください!